夕暮れが終わりかけていた。
空の色が、青とオレンジを溶かしたような柔らかさに変わっていく。
 
その庭に、舞花は立っていた。
いつものベンチ。
いつもの紅茶。
だけど、鼓動だけが、いつもと違って落ち着かない。
 
(今日、来てくれる──って)
 
確かに、そう言った。
それだけなのに、こんなにソワソワするのは、
あの日から、たった数日で心が変わってしまった証拠だ。
 
風がふっと揺れたとき。
花壇の向こう、剪定したばかりの木々の影から──
 
「……こんばんは」
 
その声が、静かに届いた。
振り返った瞬間、世界が音を失った気がした。
 
「椎名さん……」
 
いつもの作業着じゃない。
けれど庭になじむ、少しラフなシャツとスラックス。
 
それだけで、“戻ってきた”って感じた。
 
「……庭、変わらず綺麗ですね」

「うん……」

「でも、花の元気がちょっと足りないかも」
 
そう言って、ひとつ膝をついて、枝をそっと撫でる姿。
見慣れていたはずなのに、なぜか今は、その背中が眩しくて。
 
「……椎名さん」
 
ふいに、名前を呼んだら、彼の手が止まった。
ゆっくりとこちらを振り返る。
 
「……名前、呼ばれるとちょっと緊張しますね」

「え?」

「いつも“椎名さん”って言われてたから、
……なんか、今のは特別っぽくて」
 
「……特別に決まってるでしょ」
 
そう言ったのは、半分、勢いだった。
でもその瞬間、彼の目が少しだけ見開かれて──
すぐに、優しく、ほどけた。
 
「じゃあ……もう一度、呼んでもらえますか」

「……椎名、さん」

「“悠人”って呼んでくれたら、
もう庭師の仕事、何時間でも残業しますよ」
 
思わず吹き出した。

「……冗談、言えるようになったんだ」

「頑張って練習しました」

「……いつの間に」

「好きな人の前だけ、です」
 
その一言で、息が止まった。
目をそらせなくなる。
でも、そらしたくもない。
 
悠人は、まっすぐにこちらを見つめて──
ゆっくり、歩み寄ってきた。
 
「……手、借りてもいいですか」
 
差し出された手は、前よりも温かくて、
握った瞬間、涙が出そうになった。
 
(戻ってきてくれた。ちゃんと、ここに)
 
悠人の声も、 風の音も、全部がきらきらしていた。

「悠人さん…」

彼は少しだけ目を細めて、黙って舞花の言葉を待つ。

「……ありがとう。ワスレナグサ、ちゃんと咲いてたよ」

「……」

「ベンチの横、あの小さな花壇。いつもわたしがマグ置くところ」

ふと舞花が視線を落とす。あの花が植えられていた場所。

「“また会う日を楽しみに”って──花言葉」

その一言に、悠人が息を呑む気配が伝わってきた。

「ずるいよね、あんなの残して黙って消えるなんて」

苦笑まじりに言った舞花に、悠人はゆっくりと目を伏せて、小さく頭を下げた。

「……ごめんなさい。
本当は、ちゃんと伝えたかったんです。
でもあの時は、あれしか方法が無かった。
僕の精一杯の気持ちでした。」

悠人は少し照れながら答える。

「ううん。伝えてくれたよ、ちゃんと。
言葉よりも、ちゃんと届いたから──」

その瞳がまっすぐに向けられて、
悠人の胸の奥が、ぎゅっと掴まれる。

「……気づいてもらえただけで、十分すぎるくらいです」

悠人がそっと笑う。
風がやわらかくふたりの間を通り抜ける。
二人の間には、たしかに何かが咲いた。
もう、すれ違わない。
もう、“庭だけのふたり”じゃない。
 
今日、ようやく──
この庭に、“ふたりの未来”が芽を出した。