「……もう、止まってる場合じゃないよね」
 
その日の夕方、舞花は玄関で軽く深呼吸していた。
バッグにスマホと小さなメモ帳を入れて、
駅まで出て、悠人が出場した会場近くを歩こうかと思っていた。
目的なんて、ない。
ただ、“気持ちだけでも動かしたい”──それだけ。
 
(会いに行く。今度は、私の方から)
 
そう決めた、その瞬間だった。
 
門を出ようとした足が、ふと止まる。
街灯の下、ゆっくりと佇む人影。
 
黒いスニーカー。
軽いアウターに、グレーのパンツ。
その姿に、思わず口が開いた。
 
「……椎名、さん……?」
 
振り向いた彼が、ほんの少しだけ頭を下げた。

「こんばんは。……遅い時間にすみません」
 
心臓が、跳ねた。
声が、温度が、全部ちゃんと“椎名悠人”だった。
 
「……その、ここで待ってるの、変だとは思ったんですけど。
ご家族に挨拶するつもりはなくて、今日は……舞花さんにだけ」
 
彼の手には、茶色い封筒。

「GARDEN AWARD、優勝したこと──
舞花さんに、すぐに報告したくて」
 
その言葉に、胸がじんわりと熱を持つ。
 
「……おめでとうございます」

「ありがとうございます」
 
すごく簡単なやりとりだったのに、
どこか、もう十分に伝わっているような気がした。
 
「それだけ、ですか?」

舞花が問いかけると、
悠人は目を細めて、ほんの一瞬だけ、頬をかすかに緩めた。
 
「“それだけ”が、すべてだったりもするんです」
 
その一言に、胸がまた波打つ。
(ずるいなぁ……この人)
 
「……また、庭に来ますか?」
 
その問いかけに、彼は少しだけ間を置いて、静かにうなずいた。
 
「はい。……次は、“自分の足”で」
 
それだけを残して、彼は背を向ける。
去っていく後ろ姿を見送りながら、舞花の胸は、ずっと熱かった。
 
(すれ違ってたと思ってたのに──同じ方向、見てたんだ)
 
その夜、舞花はなかなか眠れなかった。