リビングには、静かなピアノのBGMと、ほのかに香る紅茶の匂い。
夕食を終えたあと、有栖川家の空気はいつも通り穏やかだった。

でも、舞花の中では違っていた。
このままでは、何も変わらない。何も届かない。
そう思ったときには、すでに口が開いていた。

「お父さん、お母さん……ちょっと話があるの」

父が新聞を畳み、母がゆっくりカップを置く。

「どうしたの、舞花?」

「椎名さんのことです」

母の表情が、かすかに曇る。
それでも舞花は目をそらさずに言葉を続けた。

「舞花、私もお父様もね、“あなたの将来”を思って──」

「違うの」
 
母の言葉をさえぎったのは、静かだけど、震えるような声だった。
 
「わたし、椎名さんが優勝したの、今日知ったの」

「──え?」
 
「花を見て、泣いて……それでも動けなかったのに、
あの人は、ちゃんと自分の場所で努力して、結果を出してた」
 
「……それって、すごくない?
わたし、ただ待ってただけだったのに」
 
母は口をつぐむ。
舞花の目は、揺れずにまっすぐだった。
 
「わたし、やっと気づいたの」

「“ふさわしい人”かどうかじゃない。
“誰かを、ちゃんと好きになれた”ことが、どれだけ奇跡かってこと」
 
少し声がかすれる。
「椎名さんは、不器用だけど、まっすぐな人です。
黙って消えたけど、言葉じゃなくて“花”を想いを置いていってくれた人です」
 
「わたし──その人が、好きなんです」
 
母の目が、少しだけ見開かれた。
いつもは優雅で品のあるその表情に、驚きの色がにじむ。
 
「……舞花」
 
「結婚って、家同士の話かもしれないけど──
でも、人生を共にするのは、誰か“ひとり”なんだよ」
 
舞花の声は、涙をこらえていた。

「だから、わたしは自分の人生を、
ちゃんと、自分の気持ちで選びたいの」
 
──沈黙。
母は、何かを飲み込むように視線を落とした。
 
「……あなた、強くなったわね」

それは、拒絶ではなかった。
でも、すぐに認めてくれるものでもない。
 
それでも、今はそれでよかった。

「ありがとう。……でもわたし、もう止まりませんから」
 
リビングを出ると、足が少し震えていた。
けど、胸の奥はすっきりしていた。
 
(会いたい。……ちゃんと伝えたい)
(今度は、私のほうから)
 
舞花の中で、何かがはっきりと変わった。