今日は仕事で会社に出社はしたけれど、
打ち合わせが早く終わり、夕方には帰宅していた。

夕方の庭は、いつも通りに静かだった。
でも──
そこに響いた“声”が、空気を変えた。
 
「舞花ーっ! お客様よ〜!」
 
母の声に、つい反射的に玄関へ向かった舞花。
するとそこには──
 
「久しぶりだね、舞花ちゃん」

スーツ姿の男性。
整った顔立ちに、柔らかな笑み。

彼の名は、桐原 湊(きりはら みなと)。

舞花の親族からの紹介で、
何度か“お見合いの場”を設けられた相手。
 
「……桐原さん?」

「ああ、急でごめん。こっちに用事があったから、少しだけ寄ってもいいかって」
 
(なんで……いま?)

このタイミングが、あまりにも最悪だった。

だって──
ふと視線を庭に戻せば、
植え込みの向こう、作業をしていた悠人の姿が、
ほんの数秒前までそこにあったから。
 
気づかれたかもしれない。
いや、きっと見られた。

「結婚の話、進めていいかどうかは、舞花ちゃんの気持ち次第って言われてるけど……」

「ちょ、ちょっと待って。そんな話、まだ──」

「でも、俺は……君のこと、ちゃんと考えたいと思ってる」
 
静かな語り口。
優しい笑顔。
まさに“条件の整った相手”。

でも──

舞花の心は、まったく動かなかった。
むしろ、遠ざかる音がした。
 
(やめて……いま、そんな話、やめて……)

ふと、視線の先。
庭の一角に、もう悠人の姿はなかった。
 
ほんのさっきまで、
すぐそこにいたのに。
手をつないで、あたたかくて、
何も言わなくても通じていた空気が、
遠く離れてしまったように感じた。
 
「また連絡するよ」

桐原が帰っていく背中を見送って、
舞花は、何も言えなかった。
 
そのあと、庭に戻っても、
もう誰もいなかった。
まるで、最初からひとりだったような、
そんな錯覚すらしてしまうほどに。
 
──こんなはずじゃなかったのに。
 
その夜、
ベッドに横になっても、眠気は来なかった。
あのとき、
悠人が見たものと、
彼が思ったことが、
言葉にしなくても、
なぜか分かってしまう気がした。
 
(違うのに。わたし、桐原さんじゃないのに……)
気づけば、胸元を握りしめていた。
指先が探していたのは、
昨日、あたたかく握り返した“あの手”だった。