翌朝。

(あ〜〜〜……昨日の夜のやつ、まだ余韻残ってる……)

顔を洗いながら、鏡越しに自分のほっぺたを見てため息をつく。

「“舞花さん”って呼ばれるだけで、こんなにニヤけるって何……」

恋人じゃない。
でも、好きだと思ってる。たぶん、向こうも。
そんな曖昧で甘い関係に、ちょっとだけ浮かれていた。
 
その日の午後、出社日だった舞花は、
オフィスからの帰りに母と待ち合わせて、知り合いの個展を見に行くことになっていた。
銀座の画廊、いつもの老舗の喫茶店。
いつもどおりの、有栖川家の“顔”。
 
「そういえば舞花。最近、庭によく出ているみたいね?」

「え、うん……仕事の息抜きにちょうどいいから」

「なるほど。……そういえば、最近いらしてる方。あの若い方ね。感じはいいのだけれど──」

母はコーヒーを口に運びながら、ふと表情を曇らせた。
 
「でも、ああいう方と、必要以上に親しくなりすぎるのは、誤解を生むから気をつけてね」
 
(……え?)

舞花の動きが、一瞬止まった。

「“誤解”って……どういう?」

「あなたの行動一つで、“こちら側の意図”だと思われてしまうこともあるのよ。
向こうにとっては仕事のうち。なのに、それ以上を期待されてしまっても困るでしょう?」

(……違う。わたしが“期待させてる”とかじゃない)

思わずそう言いかけて、でも、言葉が出てこなかった。
母の声は静かで、どこまでも理性的だった。

「……あなたは“有栖川”の娘なのよ」

その言葉が、何より効いた。
 
さっきまで、
彼と交わしたささいな言葉や、手のぬくもりが
まるで“なかったこと”にされていくみたいで──
 
(……ううん、そんなことない。わたしは、ちゃんと……)

言い聞かせるように、コーヒーを一口飲んだ。
でも、味がしなかった。
 
“線なんて、ない”って思ってた。
でもやっぱり、
“最初からそこにあった”のかもしれない。
 
昨日までの“浮かれた気持ち”が、
少しだけ現実に、引き戻された。