「じゃあ……また明日」

そう言って、舞花は静かに背を向けた。

──夜の帰り道。

駅から家までのちょうど中間地点。
打ち合わせ終わり、偶然ばったり会った帰り道だった。
 
(言いたいこと、言えなかった)

たった15分くらいの距離。
でも舞花にとっては、ものすごく長くて、苦しい時間だった。

話しかけたらまたよそよそしくされるんじゃないか、
って思ったら、怖くて。

それでも歩幅を合わせてくれる悠人に、少しだけ期待して。
けど、結局また──ちゃんと話せなかった。
 
「おやすみなさい」
それだけ言って、舞花が歩き出したその瞬間。
 
「……舞花さん」
 
不意に、名前を呼ばれた。
背中が、止まる。
その声は、思っていたよりずっと低くて、
迷いも照れもなくて。
 
「え……」

振り向いたときには、
悠人が、すぐそこに立っていた。
夜風が、そっとふたりの間を吹き抜ける。
 
「俺、たぶん──」
 
次の言葉を待つ間、
心臓がうるさいくらい鳴っていた。
 
「もう、引けないんだと思います」
 
舞花の目が、揺れた。
 
「線を引こうとしたのは、俺のほうで。
あの時、ちゃんと距離を置こうって、思ったのも俺で。
……でも、何回でも、近づきたくなってしまうんです」
 
ふいに、指先が動いた。
舞花の手に、そっと触れてくる。
ほんの一瞬の、ためらい。
でも──
 
ぎゅ、と。
しっかり、つかまれた。
 
「……どうしたの、急に」

舞花の声は、少しかすれていた。
 
「俺の手が勝手に、動いたんです。たぶん」
 
笑ってるわけじゃないのに、
どこか、やさしい声だった。
 
「もう、ちゃんとわかってます。
これ以上、線なんて引けないって」
 
手を繋いだまま、ふたりの間に風が吹く。
沈黙が心地よくて、
言葉なんて、もういらない気がした。
 
舞花は、小さくうなずいて。
そして、そっとその手を、握り返した。
 
──それだけのことで、
もう、十分すぎるくらいだった。