風はすこし冷たくて、空はやわらかい灰色。

舞花は、いてもたってもいられず庭へと出た。

次のリモート会議までの合間、ほんの10分でも空を見上げると
少しだけ、気持ちが戻ってくる。

(…あんなことがあったのに)

──手を掴まれた。
──名前を呼ばれた。

まっすぐで、迷いのない声。
あの瞬間だけは、ふたりの間に何の壁もなかった。

(……だから、わかってた)

今日、彼が少しだけ距離を置いたこと。
それが“母の言葉”のせいなんだって。
 
「おはようございます」

「……おはようございます、お嬢様。」

名前を呼ばれなかったこと。
ただの挨拶みたいなやり取りが、妙に堅かったこと。

全部、ちゃんと伝わってしまった。

(わたしのせいじゃない。……でも)

(わたしの“立場”のせいだって、思わせちゃったのかもしれない)
 
「昨日、ありがとうございました。……手、あたたかかったです」

小さな声で言ってみたけれど、

「……いえ。お気をつけください」

それだけだった。
目を合わせてくれない。
昨日までの“距離のなさ”が、うそのようだった。
 
(……やっぱり、あのときだった)

母の声が、頭の奥で響く。

──“お願いする側とされる側という関係は、ちゃんと理解しないとね”
そうやって、さらっと線を引いた母。

きっと、椎名さんにもそれは伝わった。
そして彼は、律儀にその線を越えないようにしている。

(……誠実な人だもん)

だから、手を掴んだことも、名前を呼んだことも、
“あれは越えてしまった線だった”って、そう思わせてしまったのかもしれない。

(でも、あれは──)
 
──うれしかったのに。
 
少しだけ風が吹いた。
花が揺れた。

(わたし、笑ってる場合じゃなかった)

どこか、泣きたいような気持ちで仕事へ戻る。
 
昨日よりも、距離が遠くなった気がする。
それなのに、好きな気持ちだけは、少しずつ、確かに強くなっていく。

(……どうして)

(どうして、離れていくの?)
 
問いかけの言葉は、誰にも届かず、
風の中に、そっと溶けていった。