曇り空、湿気を含んだ重たい風。
仕事なんて手につくわけがない。

オンライン会議してても「舞花さん…」て何度も呼ばれた。
舞花は、庭に出るのを迷っていた。
(昨日、あんなふうに……)

名前を呼ばれたこと。
手を掴まれたこと。
“行かないでほしい”って言われたこと。

全部、頭では冷静なふりをしていたけれど──

内心、まだドキドキが続いていた。
(会ったら、またあの目で見られるのかな……)

妙に意識してしまって、今日はベンチに座るのもためらった。
そんなとき、玄関先から母の声。

「舞花、少しだけこちらに来てくれる?」

「え? なにかあった?」

「ちょっとね──お父様の仕事の関係で、話を通しておきたい方が来てるの」

「……あ、はい」

和室に入った瞬間、
舞花の足が止まった。

そこにいたのは──椎名 悠人。

作業用のベストを脱いだシャツ姿で、正座していた。
目の前には、母と父。

思わず、舞花の喉がひゅっと詰まる。
(……どういう空気……?)
 
「……有栖川家の庭を長く見てきてくださっているのは承知しておりますが、
このあたりの剪定方針、少々変わってきているようで」

母の声は静かだが、明らかに距離を取っていた。

「すみません。今回は、土壌の様子を見て、少し判断を変えました」

悠人の声も、いつも通り落ち着いていた。
けれど、舞花には分かる。
彼がどこか、気持ちを抑え込んでいることが。

「うちは歴史ある家ですからね、急な変更や新しいやり方には慎重なの。
“変えていいもの”と“変えてはいけないもの”がありますから」

「……はい。以後、十分に配慮いたします」

一礼する悠人。
舞花は思わず口を開いた。

「お母さん、悠人さんっ…椎名さんは、
本当に丁寧に見てくれてる。庭、すごくきれいになってるの、私もわかるよ」

母は舞花をちらと見て、そしてこう言った。

「舞花、あなたがどう思うかは大切よ。
でも“仕事をお願いする側とされる側”という関係は、ちゃんと理解しないとね」
 
──バサッ、と音がした気がした。

それは言葉ではない。
でも、はっきりとわかる“線引き”だった。

今のこの家で、
自分は「有栖川家の娘」で、
彼は「庭師」なんだという、立場の差。

昨日の、あの距離感。

名前を呼ばれて、手を掴まれて、
心が一歩近づいた気がしたのに。
今日の母の声が、それをまた遠ざける。

(住む世界が……違う、の?)

思ってもいなかったその言葉が、
舞花の胸の奥に、じんわりと広がっていった。
 
帰り際、廊下でふと視線が合った。
悠人は何も言わなかった。

でも、何も言わないまま、ほんの一瞬、舞花に小さく会釈をして歩き去った。
舞花は、その背中をただ見送ることしかできなかった。