マグを片手に庭に出たのは、夕方4時すぎ。
 
晴れてるけど風が少し強くて、
髪がふわっと顔にかかるたび、カフェラテの香りに混じって土と緑の匂いがした。
 
ベンチの先に、見慣れた後ろ姿。
……椎名さんだ。
 
いつもと変わらない、作業服にキャップ姿。
なのに、なぜか今日は。
 
(……え、ちょっと、なんか柔らかくない?)
 
いやいやいや。
気のせい。きのせい。
 
でも、昨日あんなことがあって──
暗い庭で、肩にふっと手を添えられて──
 
(……いや、思い出したらドキドキがえぐい)
 
と、意識したその瞬間に、彼がこちらに気づいて顔を上げた。
 
「……こんにちは」
「ねっ……ねねっ……ねね……っ……っあっこんにちは!」
 
(何言った私!?今、“ねね”って誰!?)
 
一気に顔が熱くなるのを感じながら、
笑ってごまかそうとしたそのタイミングで、またやらかす。
 
「あの、あの、椎菜……さん、じゃなくて!椎名さん!!」
 
「……はい」
 
彼の返事は相変わらず淡々としてるのに、
一瞬だけ──ほんっっっの一瞬だけ、
目尻が……緩んだように、見えた。気がした。
 
(……笑った?今、笑った!?私が“噛んだ”だけで!?)
 
「なんか今日、風強いですね!風がっ!強すぎて!口がまわらなくて!!」
 
「……そうですね」
 
「ちょっと笑いました!?今!」
 
「いえ、風が……ちょっと」

「あっ、、そそそっ、、、、」
(風のせいにしたな今……!絶対笑ってたじゃん!)
 
彼は、剪定ハサミを静かに置いて、
ほんの少しだけ、口元をぴくっとさせた。
 
「そんなに噛まれると、さすがに」
 
「ひいぃぃぃぃ!認めたー!!」
 
両手で顔を覆ってベンチに沈む私の横で、
椎名さんは、ほんの少しだけ視線をそらしたまま、ふっと息を吐いた。
 
それはたぶん──
誰にも気づかれないように笑う時の、呼吸だった。