「舞花、朝ごはん食べないの?」
「あとで食べるー! 時間ないー!」
玄関に走っていく途中、廊下の窓からちらっと外を見ると、
木漏れ日の中で、ツツジがふわりと風に揺れていた。
──今日も、庭はちゃんと咲いてる。
「いってきますっ!」
髪をくるんと揺らして走り出すと、
母の「ヒール音が響いてるわよ〜」という声が背中に飛んできた。
有栖川 舞花(ありすがわ まいか)、24歳。
東京の下町にほど近い、歴史ある住宅街にある古い大きな家に生まれ育った。
“お嬢様”と呼ばれることには慣れているけれど、
本人としてはただの「普通のOL」だと思っている。
職業は、ライフスタイル系Webメディアの編集者。
週に数回は都内の編集部に出勤し、
打ち合わせや取材、撮影の立ち合いなどに追われている。
一方で、残りの平日はリモートワークで、
原稿チェックや写真修正などのデスク作業を自宅でこなす。
自営業に近い自由さと引き換えに、スケジュール管理はすべて自己責任だ。
外ではしっかり者と思われているけれど、
じつはスイーツには目がなくて、
冷蔵庫の下段はコンビニデザートで埋まっている。
「お嬢様」として育ったせいか、
恋愛ではどこか不器用。
けれど──誰かとちゃんと、
心を通わせてみたいという気持ちだけは、誰よりも強く持っている。
***
次の朝も、変わらないようで、ちょっと違う。
玄関に向かう前、ふと目に入ったのは、
庭の奥の木陰で作業する人影。
「……あっ、おはようございます! 高橋さん」
「おはようございます、舞花さん。お気をつけて行ってらっしゃい」
顔を上げたのは、高橋さん。
代々、有栖川家の庭を見てきた庭師の業者のひとりで、
もう何年も来てくれている。
気さくで、やわらかい口調の年配の男性だ。
「この前植え替えてたアジサイ、元気そうですね」
「ええ、舞花さんが水やりしてくださってたからですね」
「ふふ。じゃあ今度は話しかけてみようかな。“今日も咲いててえらいね”って」
「それはきっと、よく咲きますよ」
ふたりで笑う、いつもの朝。
庭の空気は、どこまでもやわらかくて、静かだった。
その日の仕事帰り、慌ただしく家に戻り、夕食を済ませたあと。
舞花はお気に入りのマグにコーヒーを注ぎ、ゆっくりと庭へ出た。
ひんやりした夜風に、今日の疲れがすうっと溶けていく。
薄暗い庭に小さな灯りがついていて、
その下で咲く花たちがほんのり揺れていた。
(やっぱり、ここがいちばん落ち着く)
家でも職場でも、ずっと“外向きの顔”を張っている毎日。
でもこの庭では、自分を全部下ろしてもいいと思える。
マグを片手にベンチへ腰を下ろし、空を見上げた。
一輪だけ咲いていた白いバラに、ふっと笑みがこぼれる。
「……今日も頑張った。明日も、まあ、ぼちぼち」
ちょっとだけ深呼吸して、マグを唇に運ぶ。
この庭があれば、まだがんばれる。明日もたぶん、きっと。
──それが、いつものわたしの日常だった。
“あの人”が来るまでは。
「あとで食べるー! 時間ないー!」
玄関に走っていく途中、廊下の窓からちらっと外を見ると、
木漏れ日の中で、ツツジがふわりと風に揺れていた。
──今日も、庭はちゃんと咲いてる。
「いってきますっ!」
髪をくるんと揺らして走り出すと、
母の「ヒール音が響いてるわよ〜」という声が背中に飛んできた。
有栖川 舞花(ありすがわ まいか)、24歳。
東京の下町にほど近い、歴史ある住宅街にある古い大きな家に生まれ育った。
“お嬢様”と呼ばれることには慣れているけれど、
本人としてはただの「普通のOL」だと思っている。
職業は、ライフスタイル系Webメディアの編集者。
週に数回は都内の編集部に出勤し、
打ち合わせや取材、撮影の立ち合いなどに追われている。
一方で、残りの平日はリモートワークで、
原稿チェックや写真修正などのデスク作業を自宅でこなす。
自営業に近い自由さと引き換えに、スケジュール管理はすべて自己責任だ。
外ではしっかり者と思われているけれど、
じつはスイーツには目がなくて、
冷蔵庫の下段はコンビニデザートで埋まっている。
「お嬢様」として育ったせいか、
恋愛ではどこか不器用。
けれど──誰かとちゃんと、
心を通わせてみたいという気持ちだけは、誰よりも強く持っている。
***
次の朝も、変わらないようで、ちょっと違う。
玄関に向かう前、ふと目に入ったのは、
庭の奥の木陰で作業する人影。
「……あっ、おはようございます! 高橋さん」
「おはようございます、舞花さん。お気をつけて行ってらっしゃい」
顔を上げたのは、高橋さん。
代々、有栖川家の庭を見てきた庭師の業者のひとりで、
もう何年も来てくれている。
気さくで、やわらかい口調の年配の男性だ。
「この前植え替えてたアジサイ、元気そうですね」
「ええ、舞花さんが水やりしてくださってたからですね」
「ふふ。じゃあ今度は話しかけてみようかな。“今日も咲いててえらいね”って」
「それはきっと、よく咲きますよ」
ふたりで笑う、いつもの朝。
庭の空気は、どこまでもやわらかくて、静かだった。
その日の仕事帰り、慌ただしく家に戻り、夕食を済ませたあと。
舞花はお気に入りのマグにコーヒーを注ぎ、ゆっくりと庭へ出た。
ひんやりした夜風に、今日の疲れがすうっと溶けていく。
薄暗い庭に小さな灯りがついていて、
その下で咲く花たちがほんのり揺れていた。
(やっぱり、ここがいちばん落ち着く)
家でも職場でも、ずっと“外向きの顔”を張っている毎日。
でもこの庭では、自分を全部下ろしてもいいと思える。
マグを片手にベンチへ腰を下ろし、空を見上げた。
一輪だけ咲いていた白いバラに、ふっと笑みがこぼれる。
「……今日も頑張った。明日も、まあ、ぼちぼち」
ちょっとだけ深呼吸して、マグを唇に運ぶ。
この庭があれば、まだがんばれる。明日もたぶん、きっと。
──それが、いつものわたしの日常だった。
“あの人”が来るまでは。

