「……見ない顔だな」
「だろうね。あたし登校2日目だし」
「2日目?転入生か?」
「違うけど…」
どうやらこの男はあたしのことを知らないらしい。
それなら好都合だ。早いところこの場から離れてしまおう。
これ以上あたしの存在が露見してあの人に迷惑を掛けたくない。何より…。
「興味があるのか?」
「え、」
先程より若干柔らかい声色に思わず聞き返してしまった。
「ピアノ」
「いや、全く」
寧ろ音楽は苦手だ。
成績だって2以上を取ったことがない。
「……だったら何故ここに来た?」
男はあたしの言葉に不満そうに眉を顰める。
どうやらあたしの発言がお気に召さなかったらしい。
「特に理由はないけど。強いて言うなら音が聞こえて来たから興味本位で覗きに来ただけ」
「………」
「そんな顔されても本当に何もないから。詮索するだけ無駄」
「ならば早急にここを去れ。ここは貴様のような者が来るところではない」
「言われなくても出てってやるよ」
この男に指図される覚えはないけど、ここで問題を起こしてまた処分を食らう羽目になったら目も当てられない。
あの人や恋ちゃんに迷惑が掛かる云々よりも復帰早々また問題を起こしたことが師匠に知られたら今度こそ竹刀片手に家に乗り込んで来るかもしれない。逃げるにしたって限度があるし何れ捕まるのは目に見えている。そんなことになったら…、恐ろしくて考えたくもない。
だから今回はどんなにムカついても言い返さない。手も出さない。大人しく引いてやる。どの道長居するつもりはなかったしね。
「タダ見客で悪いね。チップあげたいところだけど生憎手持ちがないからまた今度」
「フン、他人に恵んでもらうほど紐じい思いはしていない。余計なお世話だ」
「あっそ。じゃあ余計なお世話ついでにもう一つ。あたしって昔から音楽の授業が苦手でさ、楽譜は読めるんだけど楽器は使えないし実際に歌うとメチャクチャ音外すから成績も2以上取ったことないんだよね。だから偉そうなこと言うつもりはないし聞き流してくれて構わないんだけど一言だけ言わせて」
「……何だ?」
「そのピアノ、ちゃんと調律してる?所々音が違うように感じたんだけど」
「、」
途端、男は胸を突かれたように言葉を失くした。
鋭く細めていた瞳を丸くさせ信じられないと言わんばかりに驚いているように見えた。
……あれ?
あたし何か間違えた?
「あー…言いたいことは以上なのでそろそろ失礼しまー「ま、待てっ!」
身体を翻して足を進めた時、男はあたしの言葉を遮って制止の声を上げた。
逃げようと思ったのに失敗した。
「何?」
「……、まえ」
「は?」
「な、まえ…」
「名前が何?」
「だからっ、名前………教えろ」
「教えろって…、人に聞くなら自分から名乗るのが礼儀ってもんじゃないの?」
当たり前のことを言ったつもりが男は眉間に皺を寄せた。
「僕のことを、知らないのか…?」
「知らない。アンタって有名人だったの?」
「………」
自分の名前を知っているが当然だと思っているのか、男の言動に呆れて溜息が漏れた。
あたしの盛大な溜息に男は更に眉間の皺を深く刻んだように見えた。そんな不満そうな顔されても困るんだけど。
正直、目の前の男が有名人であろうと興味はなかった。
だから相手の名前も知らないし知りたくもなかった。寧ろ自分の名前を名乗りたくないから相手の名前なんて聞きたくもないのだ。
「……此花、祈織だ」
それなのに目の前の男は嫌そうな顔してそう言った。
そんな顔して嫌々名乗るくらいなら引き止めなきゃいいのに。よく分からない男だ。
「お前は?」
名乗りたくない。
でも向こうが名乗ったからにはこちらも名乗らなければ筋が通らない。
「………海」
仕方なく名前だけを名乗ると、男は一瞬言葉を飲み込み大袈裟なくらいに目を見開いた。
「う、み…?」
……何?
あたしまた変なこと言った?
「まさか、お前…」
さもあたしのことを知っているかのような口調に違和感を覚える。
一歩、また一歩と、無意識に足がドアの方へと後退する。
直感的に不味いと思った。
このままここにいればあの人に知られてしまうと頭の中で警鐘が鳴る。
そんなのダメだ。絶対に。
だってあの人はあたしの…―――。
「あ、おいっ!」
咄嗟に足が動いた。
大声を上げて後ろから追い掛けて来そうな此花を無視して旧音楽室のドアに手を掛けた瞬間、あたしじゃない誰かがガラッと扉を開けた。
次の瞬間、目の前に現れた人物にあたしは目を見開いた。
だってそこにいたのは…、
「海…?」
あたしを縛る鎖だった。

