「……ねえ、羽瀬川さん」

 

 放課後、教室を出ようとしたとき。
 誰かにそっと袖を引かれて、足が止まった。

 

 「ちょっとだけでいいの。……少し、話せる?」

 

 

 その子の顔には笑みが浮かんでいたけど、
 なぜだか胸の奥がざわっとした。

 

 それでも断れなくて。
 私はその子と一緒に、人気のない校舎裏へと向かってしまった。

 

 

 「羽瀬川さんって、いっつも誰かと一緒だよね」
 「澪くん、陽向くん、柊真先輩、奏先輩……全員?」
 「自覚ないのって、いちばんタチ悪いって知ってた?」

 

 

 ……なんで、こんなことに。

 

 何も悪いことなんてしてないのに。
 ただ、優しくしてもらって、うれしくて——
 笑ってただけ、なのに。

 

 

 「ちょっと、冷やそうか」

 

 

 ふいに、ひとりの子がバケツを逆さにした。

 

 

 ……え?

 

 

 「やめて……ください……っ」

 

 

 声がふるえて出なかった。
 でも、逃げることもできなかった。

 

 

 そのとき——

 

 

 「——やめろって言ってるだろ」

 

 

 ぴしゃっ。水がはねた音と一緒に、
 誰かの影が、わたしの目の前に立っていた。

 

 

 「……奏、くん……っ!」

 

 

 制服の肩が、水で濡れていた。
 髪の先からも、ぽたぽたと雫が落ちている。

 

 でも、奏くんは一歩も動かなかった。
 ただ、わたしを背中でかばっていた。

 

 

 「ふざけんな。
  誰かが優しくされたくらいで、こんなことするの、かっこ悪いよ」

 

 

 その声は低くて、怒ってて、でも少しだけ震えていて。

 

 誰よりも、悔しそうだった。

 

 

 「やっていいことと、悪いことの区別くらい、つけろよ」

 

 

 その言葉に、女子たちは何も言えなくなった。

 

 

 「……俺も同じ」

 

 

 続いて現れたのは、陽向先輩だった。
 なぜか、自分の制服のポケットからハンカチを出して、
 奏くんの肩をそっと拭いた。

 

 

 「これ、ねねちゃんに使わせたかったのに、
  先に奏が濡れちゃうとかズルいな〜」

 

 「……うるせーよ」

 

 

 ふたりの会話は、どこか自然で、
 でもその空気が、何よりもわたしを守ってくれた気がした。

 

 

 「本は、濡れたら乾かない」

 

 

 今度は澪くんがやってきた。
 静かに立ち止まり、わたしと女子たちを見比べてから言った。

 

 

 「ねねちゃんの笑顔も、
  濡れたら簡単には戻らないよ」

 

 

 やさしくて、でも深くて。
 そのひと言が、空気をすっと静かにした。

 

 

 最後に現れたのは、柊真先輩。

 

 

 「今日のこと、全部、俺が先生に話すよ」
 「その代わり、もう二度と、ねねちゃんに近づかないで」

 

 

 その言葉に、女子たちは小さくうなずいて、そそくさとその場を離れていった。

 

 

 ……何が起きたのか、
 よく分からないまま、私はただ立ち尽くしていた。

 

 

 濡れた制服の奏くんが、ぽつりとつぶやいた。

 

 

 「……本当は、怒鳴るのとか好きじゃないけどさ」
 「ねねが、泣くとこ見たくなかった」

 

 

 その声が、胸の奥に、じんわりしみた。

 

 

 「……ごめんなさい」
 「なんで謝るの。悪いのは、ぜんぶあっちだよ」

 

 

 そのあと、誰も何も言わずに、ただ私の周りにいてくれた。

 

 

 静かに、やさしく、そしてまっすぐに。

 

 “守ってもらう”って、
 こんなに苦しくて、あたたかいものなんだって、
 このとき、初めて知った。