「……あれ?」

 

 朝、教室のドアを開けた瞬間。
 ほんのすこしだけ、空気の温度が違った気がした。

 

 誰かが笑ってる声も、
 椅子を引く音も、
 全部いつも通りなのに、
 なぜか私だけ、そこに馴染めない感じがして——

 

 「おはようございます……っ」

 

 誰かと目が合うのを期待していたのか、
 合う前に逸らされて、ちょっとだけ胸がしゅんとした。

 

 

 でも、気のせい。
 たぶん、声が小さかっただけ。

 

 うん、大丈夫。
 ちょっと眠いだけかも。

 

 そう言い聞かせながら、席に着いてリボンを結び直す。
 でも、指先がなぜかすこしだけ冷たくて、
 うまく結べなかった。

 

 

 「……最近、あの子、よく見かけるね」

 「いっつも、誰かしらの先輩と一緒にいない?」

 「ね。……そういうの、疲れないのかな」

 

 

 声は小さくて、
 でも“わたしには”ちゃんと届いていた。

 

 あえて目は合わせなかったけど、
 教室の中で私が“いま、どこにいるのか”が、はっきりわかってしまった。

 

 

 ——あれ、私、何かしたっけ。

 

 

 何もしてない、と思うけど、
 何もしてないって言い切れる自信もなくて。

 

 だいじょうぶ、って思いたかったのに、
 だいじょうぶじゃないかもって、心がこぼれそうになって。

 

 

 「ねねちゃーん……あ、ごめん、ちょっと呼ばれた!」

 

 席に近づいてきた子が、
 私の名前を呼んだのに、
 何事もなかったみたいに、くるっと背を向けて去っていった。

 

 

 私、そこにいたんだけどな……って、
 思ったけど、声には出さなかった。

 

 

 そういうのって、
 言ったらもっと、取り返しがつかなくなる気がして。

 

 

 お弁当袋を出そうとした手が震えて、
 結び目がほどけて、床に落ちてしまった。

 

 「あっ……」

 

 しゃがみこもうとした私の手より先に、
 誰かの指が、そっとそれを拾ってくれた。

 

 

 「……大丈夫? 落としただけ?」

 

 

 顔をあげた瞬間、
 ほっとしたのと同時に、なぜか涙が出そうになった。

 

 

 「……澪くん……」

 

 

 彼はなにも言わずに、お弁当袋を差し出してくれる。
 その指が、ほんの一瞬、私の手にふれた。

 

 

 「……ありがとう、ございます」

 

 

 声が、思ったよりもうまく出なくて、
 自分でもびっくりした。

 

 

 「……無理して笑わなくていいよ」

 

 

 その言葉に、はっとする。

 

 

 ——え。

 

 

 「さっきから、ずっと見てた。
  今日のねねちゃん、……いつもより、目が笑ってなかった」

 

 

 言われて気づく。
 私、そんな顔してたんだ。

 

 

 「……ねねちゃん、誰に何を言われても。
  俺は、君のこと、ちゃんと見てるから」

 

 

 その声が、
 胸の奥の、ふれてほしくなかったところに、
 やさしく届いた。

 

 

 涙がこぼれそうだった。
 でも、こぼさなかった。

 

 だって——
 こんなふうにやさしくされる理由すら、
 自分じゃわからなかったから。

 

 

 でもその日、
 私ははじめて「守られる」ってことが、どんな感覚なのかを知った。