その日は、兄が夕方まで帰ってこない日だった。
だからこそ、家に帰ってリビングのドアを開けた瞬間、
ソファに見慣れた人影があるのを見て、思わず声が漏れた。
「……奏くん?」
「ただいま、ねね」
それ、兄に言うやつじゃない? って思ったけど、
あまりにも自然すぎて、ツッコミすら忘れた。
「柊の頼まれてたプリント、届けに来たついで。……それだけ、だったけど」
奏くんの視線が、わずかに私の足元から顔までを追う。
その目に、いつもと違う色を見た気がして、胸がそわそわする。
「……さっき、カフェ帰りだった?」
「えっ……なんで……?」
「袖にミルクの香り。……もしかして、あいつ?」
“あいつ”って、柊真先輩のこと?
そんなふうに呼ぶの、ちょっと珍しい気がした。
「……うん、会いました」
「ふーん……そっか」
奏くんはテーブルに置いた資料をチラと見て、
それから私の方に目を戻す。
その目が、少しだけ低くて、
まるで、私の中を見透かしてるみたいだった。
「最近、どう?」
「……なにがですか?」
「いろんな男に囲まれて、ときめいて、揺れて……
……疲れてない?」
その問いに、心の奥をそっとなでられた気がした。
奏くんは立ち上がって、
私のすぐ隣に座る。
距離が近い。
息を吸ったら、同じ空気が肺に入ってしまいそうなくらい。
「ねねって、わかりやすいけど、がんばるタイプだから」
「……そんなの……ずるいよ、奏くん」
「うん。ずるいの自覚してる」
「だったら……やさしくしないで……」
「無理。……だって俺、昔から、ねねのこと好きだから」
鼓動が、跳ねる。
全身に響くほど、ドクンって。
「え……今……」
「言ったよ。聞こえただろ?」
手の甲に、そっと彼の指が触れる。
そのまま絡めるわけでも、強く握るわけでもなく、
ただ、重ねるだけ。
「昔は、兄貴の妹って肩書きが邪魔で言えなかった。
でも、もう我慢する理由、ないよな」
目が、まっすぐ。
甘いけど、逃げられない。
この人の目に見つめられると、全部嘘がつけなくなる。
「他の男のとこ、行くなよ。
行ったら……俺、止まれないかもしれない」
「……奏くん……」
「……俺にだけ、そんな顔してて」
そっと髪に触れられたその瞬間、
涙が出そうになった。
優しすぎて、苦しいくらいだった。

