澪先輩と図書室で別れたあと、
 私はまだ、本の余韻から抜け出せなくて。

 

 言葉を交わすよりも、
 ただ隣にいるだけで気持ちがあたたかくなる、
 あの静かな時間が、心地よすぎて——

 

 だけど同時に。
 “自分の中で何かが変わり始めてる”ことにも気づいてしまって、
 どこか落ち着かなくなっていた。

 

 ……もう少しだけ、誰にも気づかれない場所にいたい。

 

 そう思って、私は駅前のカフェへと歩いていた。
 誰にも教えていない、小さな秘密の居場所。

 

 扉を開けた瞬間、
 カランと鳴った鈴の音。
 それに反応するように、やわらかな声が降ってきた。

 

 「……ねねちゃん、来ると思ってた」

 

 カウンター越しに微笑む、エプロン姿の柊真先輩。

 

 その笑顔だけで、
 肩に乗っていた何かがふわっとほどけていった。

 

 

 窓際の席に座ると、
 すぐに運ばれてきたのは、ハートのラテアートと、ふた口サイズのクッキー。

 

 「今日は甘いのがいいかなって思って」

 

 「……なんで分かるんですか、そういうの」

 

 「ねねちゃんの顔、めっちゃわかりやすいもん。
  心の中、70%くらい表情に出てる」

 

 「そ、そんなに……?」

 

 「うん。でもそれが、すごくいい」

 

 ちょっと目を伏せながら言ったその声が、
 心の奥に、すっと入り込んでくる。

 

 「……今日も、なんかあった?」

 

 「……んー……なんか、“ときめきすぎて疲れた”って感じかも」

 

 「ああ、あるよね、そういう日」

 

 先輩は、笑いながら椅子を持ってきて、私の向かいじゃなく、隣に座った。

 

 「え、なんでこっち……」
 「距離、近いほうがいいなって思って」

 

 さらっと、自然体で言うのに。
 その目は、ちゃんとまっすぐこっちを見てて。

 

 「俺、こう見えて……けっこう本気なんだよ?」

 

 「えっ、な、なにがですか……?」

 

 「ねねちゃんのこと。ちゃんと、好きって思ってる」

 

 手にしていたカップを、あわててそっとテーブルに戻す。

 

 柊真先輩は、それを見てふわっと笑って、
 そっと、私の指先に触れた。

 

 「びっくりさせた? ……でも、もう隠すの、無理だから」

 

 「……なんで……そんな、やさしくて、まっすぐで……」

 

 「たぶん、ねねちゃんが、俺の“好き”を育てちゃったんだと思う」

 

 甘い声。
 やわらかい目元。
 でもその奥にある“真剣”が、ちゃんと伝わってきて。

 

 「ここはさ、ねねちゃんが来てくれるだけで、全部あったかくなる」

 

 「……それって、カフェの話ですか?」

 

 「んー、俺の話かな」

 

 そう言って、ちょっといたずらっぽく笑う。

 

 「……俺の中、ねねちゃんでいっぱいになってる。
  もう、誰にも見せたくないくらい」

 

 指先がそっと、私の小指に絡んだ。

 

 「また、来てくれる?」

 

 「……来たいって思ってます」

 

 「じゃあ、これはふたりだけの約束ね?」

 

 指きりをするみたいに、
 小指と小指をぎゅっと結ばれたまま、
 私の心も、ゆっくりとほどけていった。