「……島崎くん、今日も来てくれてありがとね。雑巾かけ、あと窓際だけお願い」
「了解です、店長」
カフェ・リエールはすでに営業を再開していた。
復旧作業はとっくに終わっている。
なのに――
島崎春輝は、週に何度か“なんとなく”店を訪れて、
“雑用”と称してせっせと手を動かしていた。
常連客にはすっかり馴染み、
スタッフたちからも「ちょっと気が利く兄ちゃん」扱いだ。
「島崎くんって、なんでそんなにマメなんですか?」
「えっと……まぁ、性分ですかね」
(――違うけど)
視線の先で、香奈衣がキッチンからひょいと顔を出す。
その瞬間、春輝はふと口元を緩めた。
•
閉店後。
すっかり静かになったカフェに、ふたりだけ。
「……春輝くん、今日もよく働きました」
「働かされたのは俺のほうだけど?」
「でも、その顔、ちょっと嬉しそう」
「そりゃあね。“香奈衣”って呼べるのは、この時間だけだから」
昼間、“店長”と呼んでいた声が、
今は低く甘く、彼女の名前をくすぐる。
「ねぇ、店長って呼んでたくせに、今さら“香奈衣”って切り替えるの、器用すぎない?」
「じゃあ、逆にずっと“春輝くん”って呼んでくれてたの、ずるくない?」
「ふふ。でも、それが効いてるでしょ?」
香奈衣の指先が、春輝の胸元をちょんと押す。
その手を、春輝がすかさず取って、指を絡める。
「……こうしてるのも、ふたりきりの時だけ」
「うん。でも、それでいい」
ほんの数センチ顔を近づけて、
香奈衣は声を落とす。
「今夜は、“春輝くん”って、何回呼んでほしい?」
「足りないくらいが、ちょうどいい。
また来たくなるから」
店の扉が閉まるころ、
ふたりはまた“秘密の関係”へと戻っていった。



