妻があの男を愛していることを僕は知っていた。

 あいつと出会ったその時にすぐ気づいた。彼女がその男に向ける表情の明るさその輝き。

 その美しさと愛らしさは素晴らしいものだが、肝心なのはその先だ。そいつはなんとその親愛にまるで気が付いていないということ。あたかも陽射しにあたっても当然と感じるかのように。

 信じ難いまでに鈍感な男だと僕は呆れた。これはきっとこの先に苦労するだろうなと。

 癇に障る言葉をいくつか貰ったが、妻となるものの手前だ堪えることとする。

 聡明な彼女のことだ何ごともあるはずがないと信じているし、何よりも彼女の現在の境遇のことを考えれば致し方がない。

 あらゆるものを失い暗く辛い日々のなかで、呑気で何も考えていない頭の中身が空っぽな棒みたいな男と無邪気に遊んでいることで気が休まるのだろう。

 僕と一緒にいたら祖国に対して責任ある者同士であるから、真面目で重い話が主となり軽口やらを言いあってばかりではいられない。いわば国家運営についての仕事の話をするしかないのだ。

 いくら聡明だとはいえまだ十五歳。可能ならば女王でいるよりも少女でいる時間を増やしたいのだろう。

 ならば二人の関係をとやかく言うのはやめておいた方が良い。なんだその男は? とかやったら彼女を傷つき苦しむし、今だって僕に対して緊張している。

 この馬鹿な男の間抜けな態度で僕が怒るかどうか心配しているのだ。その心があるのなら、良いのです。

 大丈夫ですよ姫。この男のせいであなたを苦悩させるようなことを僕はしません。このことは不問に致します。こんな男の愚行で揺らぐようなやわな心などあいにくと持ち合わせてはおりません。

 ただし僕のこの男のことが大っ嫌いであることは承知してもらいたい。虫唾が走るとでも言っても過言ではない。

 あなたの奴への愛情を容認する代わりに僕はこの男を徹底的に嫌悪します。それぐらいして当然ですし、そうしないと僕の気持ちは治まりません。

 バランスをとらせていただく。

 そこは言葉にしませんがなんとなくで良いのでご理解いただきたい。まぁどこかのアホでは無いのだから伝わるだろう。

 だがもしも彼女が血迷ってこいつを国に連れて行きたいと願ってきたら、それだけは絶対に反対しよう。

 他のことは賛成してもこれだけは、駄目! うちじゃ飼えません! と明白に線引きをする。

 故国に戻るまでの異国での少女時代までなら僕が耐えればいいだけの話だ。あの日、あの時、あの場所における彼女の様子がおかしかったのは、この男のせいだとは僕には分かっている。

 彼女も僕の心を理解してくれているだろうことは、後日に面会した際にそのことについては全く触れなかったことで分かる。

 見苦しく言い訳がましいことなど一切言わずに、いつものように理智的である意味で冷徹な女王の様子がそこにあり僕は満足した。

 まさか彼とはそういう関係ではありませんとか、誤解しないでくださいといったことを言い出さないと分かっていたが良かった。

 彼女も僕がそんなことを気にする愚か者だと見てくれなかったその心に感謝したい気持ちだ。信頼感が心地良く伝わって来る思いだ。

 アグ・リアス殿からのご説明があったように、あのどこの馬の骨かわからない男はただの弟子であり仲の良い友達に過ぎないことは間違いはない。

 少し仲が良すぎるが妻の交友関係についてあれこれいうのも差し出がましいことである。

 まぁ保護者でもあるアグ・リアス殿がいるのなら問題が起こるはずがなく心配ご無用であるというか、あの男はそのアグ殿を好いているようにしか見えず事実そうなのだろう。

 ますます馬鹿な男だと僕は軽蔑の念を深めた。嫌いな奴の愚かさを発見することはとても気持ちが良いものだ。真に幸福な気分に浸れる。そういった意味では僕はいっぱしのアーダン研究者でありあいつの情報をたくさん集め分析をしている。アンチこそファンより詳しいというやつだ。

 あいつはアグ殿はホリンと深い仲になりつつあることが分からないのだろうか?

 節穴らしく何も見えていないのだろう。逆にその心は覗かれているということにすら気が付かない愚かさよ。愚かさ、底抜けといったところだ。

 オヴェリアの愛も見えず、アグ殿の愛も見えないとは、目が悪いというか頭が悪いというか両方か、つまりは、うむ、呪われている。無駄に身長が高いからそうなる。頭に回すべき栄養の配分も間違えているということ。

 酷い人生を歩みそうでとても微笑ましい。そのまま頑張れと応援したくなる。

 この件で僕はあいつのことが気にくわないので親切心を起こして、アグ殿はホリンを愛しているから諦めろとかいうことはしない。

 そんなことをしたら血迷ってオヴェリアに縋りつくかもしれないし、事情を察した彼女も同情してしまうかもしれない。

 ここは放っておいていつか痛い目に会う時をのんびりと静観するのがよかろう。

 時間の問題だ。この先に訪れる約束された悲惨な時を思うと僕の口元は緩んでしまう。

 苦しめ、いっぱい苦しめ!

 オヴェリアもアグ殿の心をあの男に伝えることもないだろうし、アグ殿本人もわざわざあの男に伝えることはしないし、もしも親切なホリンがそのことを伝えても、あの男がライバルの言葉を信じるはずが無く、ますます破滅に向かってのめり込んで嵌まるしかないから、もう万事休す。

 八方ふさがりでありここは第三者の僕が伝えて救うしかないが、ご存知のように敢えて言わないことにするからお前はもうおしまいなんだ。

 フフッざまを見ろ。この死人が! お前はもう詰んでいる。

 人の妻と仲良くなる男はロクな目に会わない方が世のため人のため僕のためになるのだ。

 しかし実がこれがホリンがオヴェリアに若干疎まられている要因でもあるのだがな。

 このままアグ殿とホリンが結ばれたらあの男はザク組から離脱してしまう。その可能性が高いからオヴェリアはホリンを遠ざけようとしている、これが僕の見立てだ。

 なんとも複雑な関係だが、彼女はこのことを関連付けて説明はしないだろう。他の理由を並べたて隙のない完璧な理論で以ってホリンの一族入りを否定するはずだ。

 本当はアグと結ばれたら、自分が好きな男がどこかに行ってしまうからという理由に過ぎないだろうが、これを認めさせる方法は、ない。

 ホリンもアグ殿を諦めれば良いが、そうするとますます一族復帰する理由もなくなり,また下手をしたらアグ殿が離脱する可能性も出て来るという摩訶不思議な状況そのもの。

 僕はいま様子見をするしかないが、このまま拗れるのなら介入したほうがよさそうだ。

 ホリンは僕の友人であり、そこを無下に扱うことはやめてもらいたいと訴えれば彼女も少しは態度を軟化させるだろうけど、それは僕と彼女の関係が拗れることとなり将来的に不利益かつ損となる。

 まだ婚姻も済ませていないのにこんなことでいさかいを起こしたくはない。ここはホリン自身がどうにかして解決してくれれば良いのだがまぁ様子見かな。

 なぁに魔王を倒し祖国に帰還となったら彼女も女王として相応しい判断をしてくれるはずだろうし。



 しかし、これは希望的観測に終わり事態は最悪の方に向かってしまった。

 これは僕のせいであったかもしれない。その経験のない若く未熟さ故の過ち。

 当事者同士間では解決しないことであると分かっていながら、どちらかというと第三者的な立場におり、個人的感情によってただ傍観しこの事態を招いてしまったこと。

 可能性のひとつにこれはあった。考え得る限り最悪の事態ではこうなると想定はしていた。

 だがこれがまさかあの魔王城における最終局面で起こるとは、悪いことには悪いことが重なるのだと祈りを捧げたくなるものだ。

 あの男がホリンとアグ殿を殺害した。

 ホリンについては議論があっても、アグ殿については議論の余地は無い。僕は遠目であるが見た。あの男がアグ殿の身体から剣を抜くところを。

 まさか死体となっていたアグ殿の胸にわざわざ剣を抜くということなどありえないことだ。愛した女の遺骸を辱めるとはありえない。

 殺害すらあの男のアグ殿への愛を考えれば想像を絶することだ。しかしそれが現に起きてしまったのだからなんという深い恨みだろう。

 この三人には何かがあったに違いないが原因はこうであろう。あの男はアグがホリンを愛していることを知ってしまった、これしかない。

 それ以外にあの男が壊れてしまうことも、闇に堕ちてしまうことはないだろう。

 僕にとって不思議だったのは、あの男はオヴェリアに対してまるで取り入ろうとしなかったことだ。

 彼女はそういう輩が最も嫌いであるからこそあの男をお気に入りにしたのだろうが、それでも人間だ。途中で欲が出始めて要求することは自然であり、彼女もそこまできたらなにかをすることも致し方なしとなるはずだ。

 そうであるのに、一切、無かった。アグ殿のことに関しても特に相談はしていない様子だ。

 したところでにべもないだろうが、それでも自分一人でどうにかしようとしていた。

 異様なまでに無欲で純粋に愛に生きていた。その末路があれなのである。

 破れかぶれとなり、自分を愛してくれているオヴェリアを殺そうとするのもその愛が反転した結果だからか?

 だとしたらなんという哀れで悲惨な存在だろう。

 この男の人生とはいったいなんであったのか? なぜ生まれたのか、なぜ生きているのか、わからぬ。

 こんなことになるなら始めから生まれてこなければ良かったのにな。

 愚かな男の成れの果てと言ってよく、これはもうひと思いに滅ぼした方がよい。

 それが慈悲であり情けというもの、と僕は容赦なく魔力を掌に集め、あの男であったものへと放った。

 ところがこれがまるで効かないことに僕は驚いた。外れたのかと思う二発三発と放ってもあれは直撃しても意に返していない。

 ならばと今度は拘束系の魔法を行使しても一切受け付けない。

 僕の術が通用しない!? 奇跡が起こっているのか? 

 それともその黒い衣はあらゆる魔力を弾く効果があるというのか? だがそれは味方からの掩護や支援も受け付けないものとなるのでは?

 とにもかくにも僕はあれとの戦いには役立たずであることに愕然とする。こうなったら妻のサポート役に徹するしかない。

 そのオヴェリアは、と危機感を抱いていたが、なんとか攻撃をしのぎ切り撃退に成功させていた。

 しかし彼女は涙しながらもそこには憎しみが無かった。どうしてだ? と僕はまた不可解となる。

 世の中には分からないものが沢山あり、知らないことがいくらでもあることを僕は知っている。

 その全てにいちいち頭を悩ませていたらキリがないことは分かる。

 しかし僕にとっての一番の不可知なものは、婚約者であり妻ことオヴェリアのことであった。

 こんなに身近にいるというのに、多くのことを知っているというのに、なんなら彼女自身も知らないことすら僕は知っているのにもっとも不明なことが一つだけある。

 あの男への感情だ。

 叔母とその配偶者となるものを殺したであろうとあの男を、自分を殺しに来る強力な襲撃者に対して彼女は恨み言のひとつだって漏らしはしなかった。

 よほどのショックであったのかと僕は思いずっと触れずにいたが、しばらく経って後のある時にそのことに触れてみた。

 アーダンは闇に堕ちたことについて少し詰ってみせた。

 彼には心の弱いところがあった。名誉心に駆られもし、嫉妬心もあり、そこが闇に魅入られてしまったのではないかと。

 魔王がそこにつけこんだ。それ以外にあるはずがない。

 そんなことを話したが彼女は軽く首を振り、それから呟いた。

「私はそうは思いません」

 僕は今までこれ以上に無いぐらい頭に血が昇るのを感じ、椅子から立ち上がり彼女を見下ろした。