俺は走った。今までで一番早く、息を止めながら走った。
これはオヴェリアちゃんのためだ、と俺は自身に言い聞かせる。
ホリンが彼女を保護しているはずだと、そう信じて俺は二階から三階四階へまたその上へ、いまだ破壊が続く大騒音の場所へ、あたかも世界崩壊の現場に着いたかのように。
そこは死と破壊の世界であった。
魔王がこの階にいるのだろうか?
または下へと降り立ったばかりなのか姿は見えない。俺の目の前には破滅は姿を現さない。
ここはもう存分に破壊の限りを尽くした後なのか、もとの形であったであろうものが見当たらない。
瓦礫と血や肉が混じりあうこの世の終わりのような光景であり、たとえ知人がいても分からない状態のもので薄れゆく現実感のなか俺は首を振った。
彼女を捜さないと。
魔王がすぐにでも現れそうな雰囲気のなか……宿命ゆえからかホリンはすぐに見つかった。
扉にもたれかかっておりこちらもまた血塗れ状態だ。
「おい起きろ! オヴェリアちゃんはいたのか?」
俺はホリンに先ずそのことを聞いた。他のことは聞きたくはない。それだけで良い。
「アーダン、くんか。捜したが見当たらなかった。もう既に階下に降りてしまわれたようだ」
「そうだろうな、それなら良い。じゃあ行こうか」
俺はホリンを背におぶった。
彼女の死体があったとかでなくてよかったと俺は安堵した。
賢く素早い彼女ならもう脱出しているかさっきの例の場所にいるだろう。逃げ遅れるとか想像もつかない。それは彼女らしくないものだ。
それよりも、この男だと俺は思った。
おそらくアグを連れて下まで降りたが、自身も懸念していたオヴェリアちゃんの捜索を頼まれてここに戻ったのだろう。
そして魔王の攻撃によって……なんということだ、と俺は思う。
このままこいつが死んでしまったらアグは……最後まで考えずに俺は歯を食いしばる。
考えるな思うな感じるな。
運ばなければならない、生きてこの男をアグの元に連れていくことこそが、彼女の喜びであり望みであり……それを俺がやらなければならない、どうしてだ?
やめろ、俺は背中のホリンの重さと体温を感じるんだ。
余計なことを考えるな。
アグのことを……意識を失いかけている彼女が誰を望んでいるのか、それはつまり彼女が愛しているのは……違うやめろ、だから考えるな。
俺は駆け出した。思考を停止させるために全神経を廊下を走ることに階段を降りることに費やす。
心を無に、自分を殺せ、自分のことを考えるな。
どうして俺が? なんて……やめろ、俺は負傷者を運んでいるだけだ、それ以外のなにものでもない。
偶然に俺はホリンを発見し運んでいるんだ。でも、どうして俺が。
「どうして……どうしてだ」
思考が口から漏れるのを止められぬまま俺は言った。
「なんで俺じゃなくて、お前をなんだ、アグ、どうして」
「そうだったのか……すまない」
返事が、聞こえ、足が止る。それから冷たさが背中を駆け下りた。なにが下ったんだ? なにが、やめろ!
「ホリン!」
「……彼女に、オヴェリア女王に、そして」
「やめろ、おい!」
俺は怒鳴った。そうすれば生き返るかもしれないと願い。
魂が離れぬように俺は願いながら。
「君に……」
「あっああ……」
背中が軽くなった気がした。いや軽くなったのだ。
ホリンの魂がこの身体から失われたのだから。
熱が籠っていた身体が冷え始めているのを俺は感じた。
俺の身体の冷えと同様に、ひとつになるように俺達の体温は近づいていく。だが一つになろうが魂は一つだけ。
ホリンが死んだ。謝罪しながら、死んだ。
俺の言葉に俺の非難と呪詛に対して彼の最後の言葉は……俺に謝罪などいらないというのに。
俺はそんなものを求めていないのに、それがお前の善性によるものだとしてもそれは俺にとって……
「うっ……」
俺は呻いたが、それでも駆けた。彼女との約束がある。
こうなったとしても俺はアグのもとに行き伝えなくてはならない。
そうでなければ彼女もまた生きては……例の空間に入ると彼女はまだ起きていてくれた。
しかし俺が彼をおぶっているのに反応をしない。
気付いているのだろうか? 彼の死を……俺の罪を。
「オヴェリアちゃんはもう脱出した」
そう伝えるとアグは頷いた。
「ホリンは、気を失っているだけだ」
しかしアグは首を微かに振った。
分かるのか? この男の魂がどこにあるのかを?
「死んでいるんだろ? 彼なら、起きるはずだ……」
私の前では? と言いたいのか? そう言うのか、俺の前で。
「ホリン」
アグが彼の名を呼んだ。
俺はいままで聞いた全ての言葉の中で最も美しい響きを感じた。
そのあまりに綺麗すぎるその声で、俺の心は切り刻まれ流れた血の味が口の中、いや頭の中に広がる。俺の名でないからだ。
だがそのような声でもホリンは傷つかずまた目覚めない。
死んだのだのだから、何も感じない。俺は生きているからそれを感じている。
アグは目蓋を閉じた。もう見るものが無いということか。世界も俺も含めて。
「アグ!」
俺は背中の死を降ろし、それから彼女の手を握った。
冷えて軽くなっていくその手。いつもの彼女とは違うその掌の感覚。
だから俺は強く握った。どうか握り返してくれと願いながら。
けれどもアグは握り返しはしない。それどころかますます冷たく軽くなっていく。
「行こう、生きるんだ! 目を開いてくれ!」
アグは目蓋を閉じたまま動かない。だが拒絶の意思は伝わった。
「三度目……こうなることは分かっていたんだ。だからもう……やめようとしていたのに、私は……なんということを」
「俺は死なない! アグ、俺とここから脱出しよう」
「もうここでいい。これ以上はもう……私は三本目を入れて……」
生きたくない、消え入る声の先が聞こえ俺はもっと強く手を握り顔を見た。
あの真っ直ぐで美しく見えていたアグの顔の三本の線が醜くく歪んで見える。
二本ではなく三本? 瞬きするとその線は消えた。
そうだ俺は三本目の線を幻視したのだ。ホリンがそこに刻まれている。
愛の証はもう既に刻まれている。俺だけがそれを見ている……いや、これまでずっと俺はアグの愛の印を見ていたのだ。
俺だけがいないその線を。線と線との間に挟まるしかなかったのが自分でありそしてやがては消えゆく存在に過ぎない。
渦巻く感情の中で俺は涙が込み上がってくるのを感じた。怒りや悲しみやそれとも違う何かの中で俺は呟いた。
「どうして俺じゃ駄目なんだ」
涙が落ちる音が聞こえ俺が見下ろすとアグの目尻からも涙が流れていた。
「……すまない」
ホリンと同じ言葉が声が聞こえた。
「待って、行かないでくれ! 違うんだ俺は苦しめるつもりも謝罪を聴くつもりもなく、アグ!」
こんなに近いのに俺は大声をあげながら頼んだ。
「頼む、俺の名を呼んでくれ!」
「もう、やめてくれ」
呼びかけに応えずに口を閉ざしているアグの声が心のなかで聞こえると、俺の手は離れた。もう首を微かに振ることもなく動かなくなった。
それだけだった。なにもなく、なにも起こらぬままアグは死んだ。
俺は何をしたかったのか? そうではなく、俺は何をしてしまったのか?
二人の最後をこんな形にしてしまって……俺が最後に、俺が苦しめる……俺の業のせいで。
「アーダンさん!」
俺の名を呼ぶ声がし扉のほうを振り返ると、そこには傷ついてはいるものの笑顔なオヴェリアちゃんがいた。
俺は彼女の姿を認めると同時に予感を感じとり、叫んだ。
「オヴェリア!」
彼女の名を呼びながら駆けた。その彼女は驚いた顔をしているが気づいていない。
天井という不可知の位置から放たれた魔王による魔弾の予兆の光。
逃げろと避けろとも叫ぶがそれは言葉になっていない悲鳴だったかもしれない。
糸が引かれているかの如くに天から垂れてきた光線が彼女の胸を貫き血を見せ死へと倒れさせようとするも、俺の腕がその崩壊を防ぐため彼女の身体を包み込む。
そんなことはさせない、決して倒れさせない。
身体全体で彼女を抱き込み天に背を向け、俺はどこかにいる魔王に対し背中越しで再び叫ぶ。
「撃つなら俺を撃て!」
彼女を強く抱きしめながら目蓋を閉じその闇のなかで祈った。
神に、いや、魔王に、いや、違う、俺は自身に願う。生きなくてはならないものが死に、罪人だけが生きるという世界は誤りであり、そうであるからこそ、どうか。
「俺を滅ぼせ!」
すると背中が光を感知する。これが滅びの光か、魔王による死の時か、と覚悟を決めると光は鎮まり声が聞こえた。いつか聞いたあの声。
「待って、それは駄目だよ」
これはオヴェリアちゃんのためだ、と俺は自身に言い聞かせる。
ホリンが彼女を保護しているはずだと、そう信じて俺は二階から三階四階へまたその上へ、いまだ破壊が続く大騒音の場所へ、あたかも世界崩壊の現場に着いたかのように。
そこは死と破壊の世界であった。
魔王がこの階にいるのだろうか?
または下へと降り立ったばかりなのか姿は見えない。俺の目の前には破滅は姿を現さない。
ここはもう存分に破壊の限りを尽くした後なのか、もとの形であったであろうものが見当たらない。
瓦礫と血や肉が混じりあうこの世の終わりのような光景であり、たとえ知人がいても分からない状態のもので薄れゆく現実感のなか俺は首を振った。
彼女を捜さないと。
魔王がすぐにでも現れそうな雰囲気のなか……宿命ゆえからかホリンはすぐに見つかった。
扉にもたれかかっておりこちらもまた血塗れ状態だ。
「おい起きろ! オヴェリアちゃんはいたのか?」
俺はホリンに先ずそのことを聞いた。他のことは聞きたくはない。それだけで良い。
「アーダン、くんか。捜したが見当たらなかった。もう既に階下に降りてしまわれたようだ」
「そうだろうな、それなら良い。じゃあ行こうか」
俺はホリンを背におぶった。
彼女の死体があったとかでなくてよかったと俺は安堵した。
賢く素早い彼女ならもう脱出しているかさっきの例の場所にいるだろう。逃げ遅れるとか想像もつかない。それは彼女らしくないものだ。
それよりも、この男だと俺は思った。
おそらくアグを連れて下まで降りたが、自身も懸念していたオヴェリアちゃんの捜索を頼まれてここに戻ったのだろう。
そして魔王の攻撃によって……なんということだ、と俺は思う。
このままこいつが死んでしまったらアグは……最後まで考えずに俺は歯を食いしばる。
考えるな思うな感じるな。
運ばなければならない、生きてこの男をアグの元に連れていくことこそが、彼女の喜びであり望みであり……それを俺がやらなければならない、どうしてだ?
やめろ、俺は背中のホリンの重さと体温を感じるんだ。
余計なことを考えるな。
アグのことを……意識を失いかけている彼女が誰を望んでいるのか、それはつまり彼女が愛しているのは……違うやめろ、だから考えるな。
俺は駆け出した。思考を停止させるために全神経を廊下を走ることに階段を降りることに費やす。
心を無に、自分を殺せ、自分のことを考えるな。
どうして俺が? なんて……やめろ、俺は負傷者を運んでいるだけだ、それ以外のなにものでもない。
偶然に俺はホリンを発見し運んでいるんだ。でも、どうして俺が。
「どうして……どうしてだ」
思考が口から漏れるのを止められぬまま俺は言った。
「なんで俺じゃなくて、お前をなんだ、アグ、どうして」
「そうだったのか……すまない」
返事が、聞こえ、足が止る。それから冷たさが背中を駆け下りた。なにが下ったんだ? なにが、やめろ!
「ホリン!」
「……彼女に、オヴェリア女王に、そして」
「やめろ、おい!」
俺は怒鳴った。そうすれば生き返るかもしれないと願い。
魂が離れぬように俺は願いながら。
「君に……」
「あっああ……」
背中が軽くなった気がした。いや軽くなったのだ。
ホリンの魂がこの身体から失われたのだから。
熱が籠っていた身体が冷え始めているのを俺は感じた。
俺の身体の冷えと同様に、ひとつになるように俺達の体温は近づいていく。だが一つになろうが魂は一つだけ。
ホリンが死んだ。謝罪しながら、死んだ。
俺の言葉に俺の非難と呪詛に対して彼の最後の言葉は……俺に謝罪などいらないというのに。
俺はそんなものを求めていないのに、それがお前の善性によるものだとしてもそれは俺にとって……
「うっ……」
俺は呻いたが、それでも駆けた。彼女との約束がある。
こうなったとしても俺はアグのもとに行き伝えなくてはならない。
そうでなければ彼女もまた生きては……例の空間に入ると彼女はまだ起きていてくれた。
しかし俺が彼をおぶっているのに反応をしない。
気付いているのだろうか? 彼の死を……俺の罪を。
「オヴェリアちゃんはもう脱出した」
そう伝えるとアグは頷いた。
「ホリンは、気を失っているだけだ」
しかしアグは首を微かに振った。
分かるのか? この男の魂がどこにあるのかを?
「死んでいるんだろ? 彼なら、起きるはずだ……」
私の前では? と言いたいのか? そう言うのか、俺の前で。
「ホリン」
アグが彼の名を呼んだ。
俺はいままで聞いた全ての言葉の中で最も美しい響きを感じた。
そのあまりに綺麗すぎるその声で、俺の心は切り刻まれ流れた血の味が口の中、いや頭の中に広がる。俺の名でないからだ。
だがそのような声でもホリンは傷つかずまた目覚めない。
死んだのだのだから、何も感じない。俺は生きているからそれを感じている。
アグは目蓋を閉じた。もう見るものが無いということか。世界も俺も含めて。
「アグ!」
俺は背中の死を降ろし、それから彼女の手を握った。
冷えて軽くなっていくその手。いつもの彼女とは違うその掌の感覚。
だから俺は強く握った。どうか握り返してくれと願いながら。
けれどもアグは握り返しはしない。それどころかますます冷たく軽くなっていく。
「行こう、生きるんだ! 目を開いてくれ!」
アグは目蓋を閉じたまま動かない。だが拒絶の意思は伝わった。
「三度目……こうなることは分かっていたんだ。だからもう……やめようとしていたのに、私は……なんということを」
「俺は死なない! アグ、俺とここから脱出しよう」
「もうここでいい。これ以上はもう……私は三本目を入れて……」
生きたくない、消え入る声の先が聞こえ俺はもっと強く手を握り顔を見た。
あの真っ直ぐで美しく見えていたアグの顔の三本の線が醜くく歪んで見える。
二本ではなく三本? 瞬きするとその線は消えた。
そうだ俺は三本目の線を幻視したのだ。ホリンがそこに刻まれている。
愛の証はもう既に刻まれている。俺だけがそれを見ている……いや、これまでずっと俺はアグの愛の印を見ていたのだ。
俺だけがいないその線を。線と線との間に挟まるしかなかったのが自分でありそしてやがては消えゆく存在に過ぎない。
渦巻く感情の中で俺は涙が込み上がってくるのを感じた。怒りや悲しみやそれとも違う何かの中で俺は呟いた。
「どうして俺じゃ駄目なんだ」
涙が落ちる音が聞こえ俺が見下ろすとアグの目尻からも涙が流れていた。
「……すまない」
ホリンと同じ言葉が声が聞こえた。
「待って、行かないでくれ! 違うんだ俺は苦しめるつもりも謝罪を聴くつもりもなく、アグ!」
こんなに近いのに俺は大声をあげながら頼んだ。
「頼む、俺の名を呼んでくれ!」
「もう、やめてくれ」
呼びかけに応えずに口を閉ざしているアグの声が心のなかで聞こえると、俺の手は離れた。もう首を微かに振ることもなく動かなくなった。
それだけだった。なにもなく、なにも起こらぬままアグは死んだ。
俺は何をしたかったのか? そうではなく、俺は何をしてしまったのか?
二人の最後をこんな形にしてしまって……俺が最後に、俺が苦しめる……俺の業のせいで。
「アーダンさん!」
俺の名を呼ぶ声がし扉のほうを振り返ると、そこには傷ついてはいるものの笑顔なオヴェリアちゃんがいた。
俺は彼女の姿を認めると同時に予感を感じとり、叫んだ。
「オヴェリア!」
彼女の名を呼びながら駆けた。その彼女は驚いた顔をしているが気づいていない。
天井という不可知の位置から放たれた魔王による魔弾の予兆の光。
逃げろと避けろとも叫ぶがそれは言葉になっていない悲鳴だったかもしれない。
糸が引かれているかの如くに天から垂れてきた光線が彼女の胸を貫き血を見せ死へと倒れさせようとするも、俺の腕がその崩壊を防ぐため彼女の身体を包み込む。
そんなことはさせない、決して倒れさせない。
身体全体で彼女を抱き込み天に背を向け、俺はどこかにいる魔王に対し背中越しで再び叫ぶ。
「撃つなら俺を撃て!」
彼女を強く抱きしめながら目蓋を閉じその闇のなかで祈った。
神に、いや、魔王に、いや、違う、俺は自身に願う。生きなくてはならないものが死に、罪人だけが生きるという世界は誤りであり、そうであるからこそ、どうか。
「俺を滅ぼせ!」
すると背中が光を感知する。これが滅びの光か、魔王による死の時か、と覚悟を決めると光は鎮まり声が聞こえた。いつか聞いたあの声。
「待って、それは駄目だよ」


