「良い太刀筋だと僕は思いますね」

 褒められてもちっとも嬉しくないというのはどういうことだと俺は困惑した。

 気にくわない。とても気にくわない。そんな言葉は聞きたくはない。

 俺はホリンという男に稽古をつけてもらっていた。

 ひとつ手合わせを願います、と丁寧に礼儀正しく頼まれたから応じたものの、不快であった。

 まるで見下されているようでたまらない。

「でも少し荒々しいものを感じますね」

 お前相手だからだよとの感情を伝えることができない腹立たしさ。

 それ以上に腹が立つことは、この男の剣は明らかに自分より上だということ。

 勝てないということがすぐさま直観的に分かるほどの実力差。

 だが俺はそんなのは無視した。自分がこの男に劣ることは認めたくはない。

 他の何かに対してそう思うことは多々ありそのほぼ全てを受け入れても、このことだけは認め難く認め辛くそして絶対に認めたくはない。

 その思いが究極にまで高まったからかこの時の俺は初陣の時よりも闘志が湧き、そしてその気合いか何かが通ったのか遂にこの男から一本を取ったかのように、木剣を弾かせその面前に切っ先をつけることができた。

 このままこの男の頭をかち割りたいという衝動をかろうじて抑えていると、驚いていた彼の表情が和らぎ、木剣をどかしながら言った。

「お見事、さすがはオヴェリア王女に稽古をつけてもらっている剣士といったところですね。事情をお話いたしますと、僕は……」



 稽古後にこのことをオヴェリアちゃんに話したら彼女は妙な顔をした。あまり見ない顔。

「ふーん。そうなんだ……うん、わかりました」

 彼女らしくない反応と態度に俺は不思議な思いでいっぱいだった。

 ここに連れて来なさいとか嬉しいとかではない。

 そんな予想とは裏腹な結果に俺はどうしてか嬉しさを覚えた。

 あの男の何らかの目的の期待が外れてしまったからかという予感。

「その男の人は叔母様からも聞いたけど」

 アグから? と俺は自身のこめかみが動くのを感じた。これはどういう意味の動きなのだ?

 自分で自分の身体の仕組みが分からない、心と体の繋がりもわからない。

「それでアーダンさんはどう思われますか?」

 えっ? 彼女から聞いたのに俺から聞く理由は?
 
 なんと答えたらいいのか俺は困惑する。いけ好かない邪悪な輩ですよ、と答えたらいいのか? そんなことを言ってアグに聞かれでもしたら……待てなんで俺はここで彼女のことを気にしているんだ? 

 関係ないだろこのことと……いや、関係ある。

 あるに決まっている。

 だからこそオヴェリアちゃんは俺に尋ねたんだし俺はきちんと答える義務がある。

 俺にとってのあの男、ホリンという男を悪口ではなくあくまで公平な立場から俺は言わなければならない。

 そうしないと俺はアグに……ってそこは違う! 忘れろ! だが……ええいもう言ってしまえ!

「俺としては彼とは気が合わないと感じたな」

「ふ~ん……」

 どうして気が合わないのですか? 
 助けてもらったのにそういった言い方って酷くないですか?
 話によると彼は結構な美男子で爽やかさんみたいじゃないですか?
 もしかして妬いているとか?
 わぁ~お師匠さんは恥ずかしいなぁ。
 こんな弟子の醜態を見ちゃうだなんて恥辱のあまり泣いちゃいそう。
 男ってめんどくさいですねぇ~そういうちっちゃい心と性根の悪さはいけませんよ。
 そんな器の小ささで彼女を受け入れられるのですか?
 すぐにこぼしちゃいそうだし、なんなら既に割れているかもププッ。
 膏薬でも貼りますか? どこが欠けているかな~あっ全部だぁ! 
 もう粉々ですよ! こんなのもう穴を掘って埋めちゃうましょ。
 このごみくず! 良い人に生まれ変わるのですよ。応援してあげますからね。

 などといった、オヴェリアちゃんがこの先に言いそうな小言や煽りを脳内で予め再生させ俺はこれに対して反論を準備した。

 来るなら、こい。だがしかし、来なかった。

 オヴェリアちゃんは黙ったまま俺の方を見ている。

 静かに俺を観察している。その瞳は澄んだ翠色でありどうしてか輝いている。光りを放っている。

 その瞳の変化はなんだろう。真顔であるのにその瞳の色だけが表情豊かに俺になんらかの感情を伝えているも、俺はそれが何かはまるで分らなかった。気づくことはできない。

「……私って実は既婚者なんですよね」

「いきなり何を言ってんの!」

 突然の告白に俺が狼狽え立ち上がるも彼女の顔は崩れない。

 冗談を言った際の笑顔が、ない。どういうことだ? なぜこんなことを。

「ザクの王族は許嫁がいて十五になったら婚姻関係となるのですよ。いまはこの状況なので名ばかり既婚者ですが、本来なら国で式を挙げて夫婦生活を始めていましてね」

「ああ、そうかそうか、王族ともなるとそういうことか」

 すごく納得した俺は座ると彼女もやっと微笑んだ。

「下々の方々が驚くのも仕方がございませんものね」

「嫌な言い方だな。まぁそうか王族はそういう制度で……」

 俺は冷たい何かを感じ口が閉じ思考も停止させる。

 なにか、危険なことを俺は考えようとしてるみたいで俯いた。

 逃れるがために、いったいなにから? どれから俺は。

「どうしましたアーダンさん?」

 かつてないほど奇妙に優し気な口調で彼女が尋ねてきた。回りくどくねっとりと甘ったれたようなその声の響き。

 なぜその声を出す? いつもはそんな声ではないというのに?

「なにか、私に、聞きたいことが、あるんじゃぁないんですかぁ?」

 なんだそれは? 俺はいったい何を聞きたいのだ知りたいのだ、しかもそれをどうして彼女が知っている?

 俺はいつの間にか目蓋を閉じて闇の中にいた。

 なにかからまた逃れるために。そこに居てはいけないという直観が働いたように。

 だがどこにも逃げられなかった。そもそも脅威は予感だけであり、それがどこにいるのかすら分かっていないのだから。

 沈黙、なぜかオヴェリアちゃんはなにも言わない。

 そのひとつの問いだけで十分であり、返事を待っているとでも言いたげなほどの、沈黙。

 なにを? 俺は何を言わなくてはならないのか? 

 聞かなくてはならないことの正体は、どこに、敵は闇のなかにいても解決しないというのなら、ここはいっそのこと、と俺は瞼を開き光の世界へと帰ってきた。

 眼前には微動だにせずにそこに居続けた彼女の姿がその顔があった。微笑みもなにもなく無表情と言っていいほどの顔。

 だがやはりその翠の光はより強い輝きだけを放っていた。

 分からない、何ひとつとして分からない、だけども自分が聞かなくてはならないことは朧げに見えてきた。

 風が流れ匂いを届けてきた。あの人のタバコの匂い。だから分かった。

「アグは、もう、結婚……済みなのか?」
「未亡人です」

 即答にまた再びの衝撃が足元に起き全身が飛びそうになるのを俺は堪えた。

 どういう感動か分からないこの感動に俺は苦しむ。喜んではならない痛みや苦しみとでもいうのか?

 彼女の翠の光が輝く。今度は怪しく鈍い光に変えて。

「二人の婚約者がいましたが病死と事故死でお別れですね。とても不幸なことです」

 話を続けるオヴェリアちゃんの哀し気な声に俺は歯を食いしばった。

 表情を、作らないとならない。無表情にしなければならない。

 動いてはならない喋ってはならない。下手をしたらそこから崩れ何かが砕けてしまうかもしれない。

 ありがたいことに彼女は勝手に話を進めてくれた。まるでこちらの事情を知っているかのように。

「それでですね、現在は独り身でして、まぁ周囲は心配しましても当の本人としましては……」

 当の本人としてはどうなんだ? 新しい道に進む意思があるのかないのか、そこが肝心なのにどうして黙る?

 タバコの匂いが濃くなり近づいてくるのを感じ取った。

 いま聞きたいのに、本人がいないこの状況で、自然に聞けたこの状態で、ここを逃したら俺は、このさき不安でいっぱいになって。

「あの、オヴェリア、ちゃん」

 久しぶりに声を出したらうまく言葉が出ずに困惑するも、彼女はなおも微動だにせず不動の姿勢のまま言葉の続きを待っている。

 今日は会話が難しい、と俺は強く感じた。水中で溺れながら喋っているみたいだ。

 どんな意識のもとでこうなってしまうのか? 自意識が暴走しているように俺は、息も絶え絶えのなかで、尋ねた。

「アグに、結婚の、意思は……あるのか?」

 聞くやいなやオヴェリアちゃんの表情はパッと花開いた様に喜色満面となり、その破顔一笑のなかで一言いった。

「直接お聞きしたらどうです?」