「ねえ、咲」

休日の午後。
リビングで紅茶を飲んでいた咲に、尚紀がふと声をかけた。

「今日は、少し付き合ってほしい場所があるんだ」

「場所……?」

「内緒。俺がエスコートするから、楽しみにしてて」

咲は不思議そうにしながらも、微笑んで頷いた。

車で移動すること二十分。

連れてこられたのは、都会の喧騒を離れた静かなジュエリーショップだった。

「え……ここって」

「予約してある。ほら、行こう」

尚紀に手を引かれて中に入ると、奥の個室に通された。

そこには、白いクロスの上に並べられた、数十種類の婚約指輪のサンプル。

「……え?これって」

咲が驚いたように振り返ると、尚紀はまっすぐに言った。

「まだ正式に渡してなかったから。——“本当の意味での”婚約指輪」

咲の目が、ゆっくりと潤んでいく。

「……だって、もう結婚してるのに」

「そうだね。でも、最初は“契約”だった。俺が本当に“君にプロポーズ”をしたことは、なかったから」

咲は、胸が熱くなるのを感じていた。

試着をすすめられた指輪は、どれも綺麗だった。
ダイヤの輝きも、デザインの優雅さも申し分なかったけれど、咲はどこか落ち着かない気持ちで眺めていた。

尚紀が、ふとひとつのリングを手に取った。

シンプルなソリティア。
けれど、中央のダイヤを支える石座に、桜の花びらが模されていた。

「……これ、咲に似合うと思う」

「桜……」

尚紀は、咲の目を見つめながら続ける。

「あの頃の約束が、ずっと心に残ってて。……だから、今、あらためて君に言いたい」

尚紀は片膝をついて、桜のリングを手に取った。

「御手洗咲さん。もう一度、俺と結婚してください。今度は、“過去”じゃなく、“これから”を誓うために」

咲の視界が涙でにじむ。

「……ずるい。そんなの、断れるわけないじゃない」

尚紀は、微笑んだ。

「よかった。じゃあ、左手を」

咲がそっと差し出すと、尚紀はその薬指に、丁寧に指輪をはめた。

サイズはぴったりだった。

それが、どれほど彼が咲を見てきたかの証のようで、胸がまたいっぱいになる。

そのあと、ふたりは近くのカフェでゆっくりと時間を過ごした。

「……改めてプロポーズされると、なんか不思議な気分です」

咲が照れたように言うと、尚紀はにやりと笑った。

「じゃあ、もう一度言おうか?“君を幸せにするから、俺と一緒にいてください”って」

「もうっ……!」

「かわいい」

尚紀は、咲の頬に軽くキスを落とす。

その瞬間、咲の胸がまた跳ねた。

こんなにも、こんなにも、嬉しいことがまだあるなんて——

帰宅後。

寝室でふたり並んでベッドに腰掛けると、咲はそっと指輪を見つめた。

「……この指輪を見てると、怖くなくなるの」

「何が?」

「未来。何が起きても、あなたと一緒なら大丈夫って、思えるから」

尚紀は咲を抱き寄せ、額に優しくキスを落とした。

「これからもずっと、そう思ってもらえるようにする。——だから、安心して、隣にいて」

「うん……約束する」

そう呟いた咲の指には、新しい指輪が静かに光っていた。

それは、もう過去に縛られたふたりではなく——
未来に進む、ひとつの証だった。