翌朝、まだ薄暗いうちに目が覚めた。
慣れないベッドの硬さも、違う部屋の天井も、すべてが非日常で、深く眠れなかったのだろう。

隣の部屋からは、何の物音もしない。
ここに誰かがいるはずなのに、まるで誰もいないみたいな静けさが、余計に落ち着かなかった。

私は静かに身支度を整えると、キッチンに向かった。
いつもと変わらない朝を、少しでも演出したくて、習慣のように手を動かす。

コーヒーの香りが広がったころ、背後で小さな物音がした。

「……おはよう」

振り返ると、尚紀がスーツ姿で立っていた。
シャツは完璧にアイロンがかけられ、ネクタイも美しく締められている。
さっきまで眠っていたはずなのに、そんな気配すらない。

「おはようございます。もうお出かけですか?」

「うん。朝は早いから。君はまだ休んでていいよ」

「いえ……少しだけ朝食を作ったので。よければ」

テーブルの上に置いたのは、トーストと目玉焼き、簡単なサラダ。
大したものではなかったが、何もないよりはいいと思った。

尚紀は、少しだけ眉を上げた。

「……ありがとう。いただくよ」

静かに椅子に腰を下ろし、黙々とナイフとフォークを動かす。
その仕草すら整っていて、私の作った素朴な料理と不釣り合いに見えた。

「味、薄かったらすみません」

「ちょうどいいよ。朝はこのくらいがいい」

口調は淡々としているのに、そのひと言が妙に嬉しかった。

(……思ってたよりずっと、ちゃんと向き合ってくれる人なのかもしれない)

私が何を期待していたのか、自分でもよくわからないけれど。
少なくとも、“ただ無関心なだけの冷徹な人”ではない気がした。

「それじゃ、行ってくる。何か困ったことがあれば連絡して」

食事を終えた尚紀は、淡く微笑んで玄関に向かった。

「……いってらっしゃい」

自然に口をついて出たその言葉に、彼がふと足を止めた。

そして、小さく振り返る。

「……うん。いってきます」

その背中が見えなくなるまで、私はしばらくその場を動けなかった。

午前中は、荷ほどきの続きをしながら、家の中の設備を確認して回った。
高級マンションの生活は便利すぎて、むしろ落ち着かない。

キッチンには最新型のビルトイン調理器。リビングには壁掛けの大型モニター。
バスルームはガラス張りで、まるでホテルのスイートのようだった。

(こんな場所に住んでいいのかな……)

つぶやきながら、私はクローゼットの中に服を並べた。

どこまで踏み込んでいいのか分からない空間。
“妻”とはいえ、これはあくまで形式的な関係。

けれど、それでも——

リビングのテーブルの上に、小さなメモが置かれていた。

《冷蔵庫にミネラルウォーターとフルーツを入れてあります。自由に食べてください。尚紀》

筆跡は端正で、文字からも彼の性格が滲み出ていた。

そういえば、昨日は一度も“呼び捨て”で名前を呼ばれなかった。
常に「君」とか、「あなた」とか、距離を保った呼び方だった。

丁寧すぎて、むしろ息が詰まりそうだったけれど、嫌悪感はなかった。
むしろその優しさが、少しだけ胸を締めつけた。

(こんな関係でも、ちゃんと“気遣って”くれるんだ)

形式だけの夫婦。それでも、私はどこかで彼の存在に安心している自分がいた。

その日の夕方、玄関のチャイムが鳴った。
インターホンのモニターに映ったのは、スーツ姿の尚紀だった。

「ただいま」

その一言だけで、空気が変わった気がした。
不思議なものだ。たった一日で、この部屋に彼の姿があることが自然に思えるなんて。

「……おかえりなさい」

そう言った私に、彼はふと視線を向けた。

「ありがとう」

たった一言。けれど、その声音に、微かな柔らかさが混じっていた。

「何か食べましたか?まだなら、簡単なものでよければご用意しますけど……」

私がそう言うと、尚紀は少し考えたあと、ゆっくり頷いた。

「一緒に食べようか。……君がいいなら、だけど」

胸が、少し跳ねた。

これは、ただの契約のはず。
それなのに、あまりに自然なその言葉に、私は思わず微笑んでいた。

「はい。喜んで」

夕食の準備をしながら、私は自分の手がほんの少しだけ震えていることに気づいた。

けれど、それを止めようとは思わなかった。

彼と過ごすこの時間が、少しでも長く続けばいいと——
そう、思ってしまったから。