差出人のない封筒を前にして、咲は深呼吸をひとつ。
封を切る指が、ほんのわずかに震えていた。
尚紀もすでに隣に座っていた。咲の肩をそっと包むように支えながら、無言で頷く。
中に入っていたのは、一枚の古びた写真、そして折りたたまれた数枚の書類。
咲は最初に、手書きの紙をそっと広げた。
それは——明らかに、咲の母の筆跡だった。
咲へ
もしも、これを読む日があなたに来たのなら、私はもうこの世にはいないのでしょう。
本当は、ずっとそばにいて、あなたの成長を見守りたかった。
けれど、私の勘は当たってしまう気がしています。
あの人の傍にいると、心が冷たくなるの。私の直感は、あなたを守らなければと警鐘を鳴らしている。
私の身に何かがあったとき、どうかあなたは、
“大切なものを、奪わせないで”。
愛する咲へ。
——母より
読み終えた瞬間、咲は何も言えずにただ目を閉じた。
(お母さん……)
震える指先で、手紙の端を撫でる。
それはまるで、母の温もりがまだそこに残っているかのようだった。
尚紀は沈黙のまま、そっと咲の背に手を添えた。
その手が、言葉よりもあたたかくて、咲の感情を優しく支えた。
「……お母さんは、気づいてたんだね。ずっと、危険を感じてたんだ」
「……ええ。でも、この手紙……どうして今になって」
咲は封筒の中に残っていたもう一枚の書類を取り出した。
それは——事故車両の整備記録だった。
整備工場の名前、整備日、部品交換の履歴。そして、担当者の署名欄に記された名前。
「……“御手洗 康臣(やすおみ)”……?」
咲がその名を口にした瞬間、尚紀の眉がぴくりと動いた。
「御手洗……って、同じ名字……?」
「うん。……でも、父の兄弟ではないはず。私、家系図を見せてもらったことあるけど、“康臣”なんて名前、記憶にない」
咲はふいに立ち上がり、書斎の本棚へ向かった。
母が残した資料の中に、以前コピーしておいた“御手洗家の系譜”がファイルにまとめられていたのを思い出したのだ。
指でなぞるようにページをめくっていくと、ある箇所で手が止まる。
「……いた……でも、なんで?」
御手洗家の分家筋にあたる人物として、小さく記載されていたその名前。
“康臣”の隣には、“二階堂”という旧姓が併記されていた。
「……二階堂……お義母様の旧姓……!」
尚紀が低く呟いた。
「つまり、この“御手洗康臣”って、義母の兄——分家に婿入りして御手洗姓を名乗ってる人物ってことか」
「事故の整備を指示した“兄”……御手洗康臣……。そういえば昔、義母が誰かと頻繁に電話してた。屋敷の使用人が“分家の康臣さんに相談してるらしい”って話してたの、聞いたことがある……」
咲の背筋がぞくりとした。
「つまり、義母は本家に嫁ぐ前から、兄を通じて御手洗家の内部に関与してたのね……」
「……御手洗本家に対する執着も、その頃から始まってた可能性がある」
咲は唇を結んだ。
(私と母を排除すれば、御手洗の血筋に近い“義母の娘”——真白が、後継者として据えられる)
(すべて……つながってる)
「これ、警察に?」
咲の問いに、尚紀は首を横に振った。
「まだ、証拠としては弱い。手紙も整備記録も“コピー”だし、どこで手に入れたかも証明できない。……でも、真実に近づく“鍵”にはなる。これを送ってきたのは、誰なんだろうな」
「……おそらく、以前、母に仕えていた人。昔、義母に追い出されたっていう話を、使用人の人から聞いたことがあるの」
咲は、目の奥に確かな光を宿して尚紀を見つめた。
「探してみる。その人に、会いたい」
「……会えるといいな」
尚紀の声は穏やかだったが、どこか戦いに向かうような静かな強さがあった。
その夜。
咲はもう一度、母の手紙を読み返した。
“大切なものを、奪わせないで”
その言葉が、今はっきりと胸に響いた。
自分が守るべきものは何なのか。
それは——“母が遺した意思”であり、“自分自身の人生”であり、
——そして、今、隣にいる尚紀との未来だった。
咲は静かに、けれど決意を込めて手紙を閉じた。
次は、自分の手でその“鍵”を探し出す番だ。
封を切る指が、ほんのわずかに震えていた。
尚紀もすでに隣に座っていた。咲の肩をそっと包むように支えながら、無言で頷く。
中に入っていたのは、一枚の古びた写真、そして折りたたまれた数枚の書類。
咲は最初に、手書きの紙をそっと広げた。
それは——明らかに、咲の母の筆跡だった。
咲へ
もしも、これを読む日があなたに来たのなら、私はもうこの世にはいないのでしょう。
本当は、ずっとそばにいて、あなたの成長を見守りたかった。
けれど、私の勘は当たってしまう気がしています。
あの人の傍にいると、心が冷たくなるの。私の直感は、あなたを守らなければと警鐘を鳴らしている。
私の身に何かがあったとき、どうかあなたは、
“大切なものを、奪わせないで”。
愛する咲へ。
——母より
読み終えた瞬間、咲は何も言えずにただ目を閉じた。
(お母さん……)
震える指先で、手紙の端を撫でる。
それはまるで、母の温もりがまだそこに残っているかのようだった。
尚紀は沈黙のまま、そっと咲の背に手を添えた。
その手が、言葉よりもあたたかくて、咲の感情を優しく支えた。
「……お母さんは、気づいてたんだね。ずっと、危険を感じてたんだ」
「……ええ。でも、この手紙……どうして今になって」
咲は封筒の中に残っていたもう一枚の書類を取り出した。
それは——事故車両の整備記録だった。
整備工場の名前、整備日、部品交換の履歴。そして、担当者の署名欄に記された名前。
「……“御手洗 康臣(やすおみ)”……?」
咲がその名を口にした瞬間、尚紀の眉がぴくりと動いた。
「御手洗……って、同じ名字……?」
「うん。……でも、父の兄弟ではないはず。私、家系図を見せてもらったことあるけど、“康臣”なんて名前、記憶にない」
咲はふいに立ち上がり、書斎の本棚へ向かった。
母が残した資料の中に、以前コピーしておいた“御手洗家の系譜”がファイルにまとめられていたのを思い出したのだ。
指でなぞるようにページをめくっていくと、ある箇所で手が止まる。
「……いた……でも、なんで?」
御手洗家の分家筋にあたる人物として、小さく記載されていたその名前。
“康臣”の隣には、“二階堂”という旧姓が併記されていた。
「……二階堂……お義母様の旧姓……!」
尚紀が低く呟いた。
「つまり、この“御手洗康臣”って、義母の兄——分家に婿入りして御手洗姓を名乗ってる人物ってことか」
「事故の整備を指示した“兄”……御手洗康臣……。そういえば昔、義母が誰かと頻繁に電話してた。屋敷の使用人が“分家の康臣さんに相談してるらしい”って話してたの、聞いたことがある……」
咲の背筋がぞくりとした。
「つまり、義母は本家に嫁ぐ前から、兄を通じて御手洗家の内部に関与してたのね……」
「……御手洗本家に対する執着も、その頃から始まってた可能性がある」
咲は唇を結んだ。
(私と母を排除すれば、御手洗の血筋に近い“義母の娘”——真白が、後継者として据えられる)
(すべて……つながってる)
「これ、警察に?」
咲の問いに、尚紀は首を横に振った。
「まだ、証拠としては弱い。手紙も整備記録も“コピー”だし、どこで手に入れたかも証明できない。……でも、真実に近づく“鍵”にはなる。これを送ってきたのは、誰なんだろうな」
「……おそらく、以前、母に仕えていた人。昔、義母に追い出されたっていう話を、使用人の人から聞いたことがあるの」
咲は、目の奥に確かな光を宿して尚紀を見つめた。
「探してみる。その人に、会いたい」
「……会えるといいな」
尚紀の声は穏やかだったが、どこか戦いに向かうような静かな強さがあった。
その夜。
咲はもう一度、母の手紙を読み返した。
“大切なものを、奪わせないで”
その言葉が、今はっきりと胸に響いた。
自分が守るべきものは何なのか。
それは——“母が遺した意思”であり、“自分自身の人生”であり、
——そして、今、隣にいる尚紀との未来だった。
咲は静かに、けれど決意を込めて手紙を閉じた。
次は、自分の手でその“鍵”を探し出す番だ。



