朝、目を覚ましたとき、まだ尚紀の温もりが隣に残っていた。

昨夜、ふたりは初めて心と心を重ねた。

淡い光のなかで交わした言葉も、重ねた指も、どれも夢のように柔らかくて、でも確かに“現実”だった。

「……おはよう」

小さく声をかけると、尚紀は目を閉じたまま、静かに微笑んだ。

「咲。ちゃんと眠れた?」

「うん。……あなたの声、ずっと耳に残ってた」

昨夜の告白。あの夏の約束。指切り。
ひとつひとつが、まだ胸の奥で息づいている。

「ありがとう。話してくれて」

「……話せてよかった。もう嘘を重ねるのは、限界だったから」

尚紀は、まるで自分を責めるように、そっと視線を逸らした。

「でも、君が思い出そうとしてくれて、俺は——本当に、救われたよ」

その言葉に、また胸が締めつけられた。

どうして彼は、こんなに優しいのだろう。

どうして、こんなにも長いあいだ、たった一つの約束を大事にしてくれたのだろう。

私は何も知らずに、彼を“他人”として見ていたのに。

遅めの朝食を終えたころ、スマートフォンが震えた。

画面には“義母”の名前。
一瞬、胸がざわつく。

(……こんなときに)

「出てもいい?」

「もちろん。無理はしないで」

尚紀にそう言われ、私は深呼吸してから通話ボタンを押した。

「……咲?起きてる?」

義母の声音は、いつものように明るく、どこか芝居がかっていた。

「はい、今ちょうど朝食を終えたところです」

「そう。じゃあ今すぐ出られるわね?」

「え?」

「今日は午後から真白の顔合わせがあるの。……あなたも“姉”として、同席してもらいたいの」

(真白の……顔合わせ?)

「それって……お見合いの?」

「そう。朝比奈グループと関係のある企業の御曹司。ちゃんと“紹介する体裁”を取りたいのよ。だからあなたには、姉としての責任を果たしてもらいたいわ」

咲の指先が、じんと冷たくなる。

「それって……私が行かなきゃいけない理由、ありますか?」

「あるに決まってるでしょう。あなた、形式的には朝比奈家の“長男の妻”なんだから。それなりの立場を示すのも“義務”よ」

(……形式的には、って)

その一言が、胸に突き刺さった。

「ご主人には内緒で。あの方、少し過保護なところがあるでしょう?すぐに“守る”だの“距離を置け”だの言い出すから」

(やっぱり、尚紀さんのことも、完全には受け入れてない)

義母は、まだ真白を朝比奈家に嫁がせたいと思っているのだ。
私の立場を「仮のもの」だと思っているからこそ、こうして試すような行動を重ねてくる。

「……わかりました。時間と場所を教えてください」

電話を切ったあと、私は尚紀のいるリビングに戻った。

「咲、電話……お義母さん?」

「うん。……真白の顔合わせに出てくれって」

「……それ、お義母さんの思惑だろう」

「わかってる。……でも、行く」

尚紀の目が、一瞬だけ鋭くなった。

「君が傷つくのは、見たくない」

「大丈夫。もう“逃げない”って決めたから」

私はソファの前に立ったまま、まっすぐ彼を見た。

「私、ちゃんと“あなたの隣にいる”って、見せたいの」

その言葉に、尚紀の瞳が静かに揺れた。

それから立ち上がり、私の肩に手を置いた。

「……行くなら、俺も行く。咲の隣は、俺の場所だから」

「……ありがとう」

たとえどんな意図があっても。
どんなふうに試されても。
私はもう、自分の気持ちに嘘をつかない。

あの夏に交わした“約束”は、私にとっても、今やっと意味を持ち始めたのだから。

その日の午後。

指定された高級料亭に足を踏み入れたとき、義母の表情が一瞬だけ強張った。

「……尚紀さんまでご一緒とは」

「当然です。妻が参加する場に、夫がいないほうが不自然でしょう」

尚紀は穏やかな声で、しかし一切の隙を見せずにそう返した。

義母は何かを飲み込むように笑って見せたが、視線はどこまでも冷たかった。

真白は華やかなワンピースに身を包み、咲を見て笑顔を浮かべた。

「お姉さま、来てくれて嬉しい。……お兄さまも一緒なんて、なんだか照れますね」

(尚紀さんが来るとは思ってなかったんだろう)

笑顔の奥に、ちらりと揺れる不満。
この場は、きっと“私がひとりで出てくる”ことを前提に用意されていた。

でももう、私は“独り”じゃない。

尚紀の手が、さりげなく私の腰に触れた。
それだけで、胸の奥に灯がともる。

誰に否定されても、誰に邪魔されても——
私はもう、“誰かのための自分”ではなく、“自分の意思で隣にいる妻”としてここにいる。

その確信が、胸を強く支えていた。