朝の光がカーテン越しに差し込むころ、私は夢の中で名前を呼ばれていた。

――さき。
――まってて。
――また、きっと会えるから。

誰の声かは思い出せない。
けれど、幼いその声に、私はどうしようもなく懐かしさを覚えていた。

まるで、ずっと忘れていた“約束”の続きが、少しずつ思い出されていくように。
そして、その記憶の奥には、いつもひとりの“男の子”がいた。

顔は見えない。
けれどその存在だけは、なぜか心に残っている。

(どうして、こんな夢を繰り返し見るんだろう……)

目を覚ましたあとも、胸の奥に残る感情が消えないままだった。

その日、私はひとりで近くの商店街まで足を延ばしていた。

尚紀が午前中から出社していて、今夜は会食があると言っていたから、夕食は一人分で済む。
少し気分転換をしようと、家から少し離れた場所を歩いていた。

昔ながらの喫茶店の前で、ふと立ち止まる。

小さな木製の看板。白地に手描きの文字。
それだけのことなのに、心が妙に騒ぐ。

(……見たことがある気がする)

入ったことのないはずの店なのに、ドアノブの高さや、ベルの音までが妙に馴染んでいた。
私は引き寄せられるように、その店に足を踏み入れた。

中は静かで、レトロなジャズが流れていた。

カウンターには老夫婦らしき店主たちが立っていて、私が会釈をすると穏やかに微笑んでくれた。

「いらっしゃいませ。おひとりですか?」

「……はい」

メニューを開くと、懐かしい名前のついたパフェやナポリタンが並んでいた。

(こんな感じの喫茶店、昔どこかで……)

記憶の断片が、また胸の奥をかすめた。

「小さい頃、こういうお店に来たことがある気がして……」

思わず口をついた独り言に、カウンターの奥の女性がふっと笑った。

「そう? うちはもう三十年以上やってるからねえ。ご家族で来てた人が、大人になってまた来てくれるの、嬉しいのよ」

(……三十年)

私の年齢を考えれば、幼いころ訪れていてもおかしくない。

思い返しても、記憶はぼんやりしていて、どうしてもはっきりしなかった。
けれど、“来たことがある”という感覚だけは、確かにあった。

家に戻ると、尚紀がもう帰ってきていた。

スーツのジャケットを脱ぎかけていたところだったらしく、ネクタイを外したままの姿でこちらを見た。

「おかえり。どこか出かけてたのか?」

「うん。少しだけ……近くの商店街まで」

そう答えると、彼は珍しく、手にしていたジャケットをソファに投げて腰を下ろした。

「咲」

「なに?」

「この間言ってた“夢”のこと、少しだけ聞かせてくれる?」

一瞬、胸がざわついた。

「……覚えてるの?あの話」

「覚えてるよ。……夢で誰かに“待ってて”って言われたって」

咲は静かに頷く。

「うん。小さい頃の夢。……ずっと忘れてた記憶みたいで。今朝も、その夢を見たの。名前を呼ばれて、また会おうねって言われて……」

尚紀の目が、静かに揺れた。

「……名前を、呼ばれた?」

「うん。“さき”って。はっきりと聞こえた。……まるで、昔の誰かに呼ばれてたみたいに」

そのとき、尚紀はほんの一瞬だけ、何かを言いかけて口を閉じた。

咲は気づかず、続けた。

「もしかして、私……誰かと“約束”してたのかな。でも、その人のことが思い出せないの。……ごめん、変な話だったよね」

「変なんかじゃない」

尚紀の声は、なぜか少しだけ熱を帯びていた。

そして次の瞬間、彼はぽつりと呟いた。

「記憶ってのは、時々、都合よく失われる。……でも、心に残る感情は、消えないままだ」

「……え?」

「俺も、昔、ある人と“約束”をしたんだ。ずっと探してた。でも、相手がそれを覚えていなくても……その人が幸せなら、それでいいと思ってた」

咲は、静かに息をのんだ。

「その人……とは、会えたの?」

「……ああ。やっと会えた」

それは誰のことなのか。
咲は訊きたかった。けれど、言葉が出なかった。

尚紀の目が、何かを堪えるように揺れていて、咲の胸も理由の分からない熱さに満たされていた。

(……なぜ、そんな風に言うの?)

“やっと会えた”――その言葉が、なぜか心の奥を強く締めつけた。

その夜、ベッドに横になった咲は、何度も尚紀の言葉を思い返していた。

「やっと会えた」
「約束」
「君が幸せなら、それでいい」

まるで、彼自身が、何かを知っているような口ぶりだった。

そして、もし彼が——
“その約束の相手”だとしたら?

いや、まさか。

そんな偶然、あるはずない。
でも、咲の心はもうその仮定を切り離せなくなっていた。

夢の中の少年。
“さき”と呼ぶ声。
“また会おうね”という約束。

そして、尚紀の「やっと会えた」という言葉。

すべてが、少しずつ、繋がろうとしていた。