その朝、目が覚めた瞬間、私は胸に違和感を抱えていた。
夢を見た。
小さな男の子が、私の名前を呼んでいた。
「さき、まってて」
幼い声。どこか懐かしくて、優しくて。
けれど、目を開けた瞬間にはもう、その顔も景色も、霧のように消えていた。
(あの夢……また、見た)
はっきりとは思い出せないけれど、これで二度目だった。
何か、大事な記憶に触れている気がする。
でも、私はその“何か”をまだ知らない。
それでも、その夢のあとに目覚めるたび、胸の奥がほんの少しだけ、切なくなる。
尚紀は、いつものように朝食をとってから出社の準備をしていた。
「今日は、午後から来客がある。少し遅くなるかもしれない」
「来客?」
「うちの副社長。父の側近でもある。実は、君のことを気にしているらしい」
「私のこと?」
尚紀はスーツの袖を通しながら、少しだけ眉をひそめた。
「……“どれだけ朝比奈の名にふさわしい妻か”という意味で、だろうな。義母と繋がっている節もある」
その言葉に、私は息をのんだ。
「……お母さまが?」
「今朝、会社宛てに副社長名義で食事の招待が届いた。“奥様もご一緒に”とわざわざ書かれていた」
尚紀は穏やかに言うけれど、その目にはわずかな苛立ちが宿っていた。
「断ってもよかったんだけど……逃げてばかりもいられない。俺と一緒に来てもらえるか?」
「……はい」
頷いた声は、少しだけ震えていた。
けれど、それでも私は“隣にいる”と決めていた。
それが形式でも、契約でも、もう逃げる理由にはならない。
その夜、ホテルの個室で開かれた食事の席は、思ったよりも静かで格式高かった。
尚紀の隣に座る私は、やや緊張しながらも、出された料理に礼儀正しく箸を伸ばす。
朝比奈グループ副社長・小宮は、五十代後半の男性で、どこか旧世代的な価値観を滲ませる人物だった。
「咲さん、でしたね。……お若い。奥様にはちょっとおっとりとした印象を受けましたが、社交の場は慣れていらっしゃる?」
「いえ、あまり……至らない点が多いかと」
控えめに答えると、小宮は意味深に笑った。
「まあ、結婚とは時間をかけて磨いていくものですから。……ただ、会社の顔という意味でも、朝比奈家の奥様には“それなり”の品格を持っていただきたい。ねえ、尚紀くん」
「……必要があれば、俺が教える。咲に不足があると思ったことは一度もない」
尚紀の声は低く、しかし明確な拒絶の意思が込められていた。
けれど小宮は意に介さず、ワイングラスを軽く揺らす。
「先代が亡くなって以降、君もずいぶん変わった。人を遠ざけるようになったとも聞く。……それが奥様の影響でないことを祈るよ」
(まるで、私が“足を引っ張ってる”みたいな言い方……)
席の空気がじわじわと重くなるなか、私は咄嗟に話題を変えようと口を開いた。
「……先代の会長って、どんな方だったんですか?」
それは素朴な興味から出た言葉だった。
けれど、その瞬間、尚紀の手がふと止まった。
小宮も、わずかに目を細める。
「……そうだな。あの人は、厳しいが、情のある人だった。“約束は絶対に守れ”が口癖でね」
“約束”——
その言葉に、胸の奥が一気にざわついた。
(夢の中で、あの子が……“約束する”って)
ひどく懐かしい感覚。名前も顔も思い出せないのに、なぜか心が強く反応している。
帰宅したあとも、その言葉が頭から離れなかった。
“約束”という言葉だけが、ずっと胸の奥に残っている。
名前も、顔も、場所も思い出せないのに——
確かに、“待ってる”と言われた気がする。
そして、私は——“忘れてしまった”側なのではないかという罪悪感。
何を。誰を。どうして。
わからない。けれど。
「……何か、忘れちゃいけない気がする」
咲は小さく呟いた。
その言葉が、静かな部屋に滲む雨の音に紛れて、夜のなかへと溶けていった。
夢を見た。
小さな男の子が、私の名前を呼んでいた。
「さき、まってて」
幼い声。どこか懐かしくて、優しくて。
けれど、目を開けた瞬間にはもう、その顔も景色も、霧のように消えていた。
(あの夢……また、見た)
はっきりとは思い出せないけれど、これで二度目だった。
何か、大事な記憶に触れている気がする。
でも、私はその“何か”をまだ知らない。
それでも、その夢のあとに目覚めるたび、胸の奥がほんの少しだけ、切なくなる。
尚紀は、いつものように朝食をとってから出社の準備をしていた。
「今日は、午後から来客がある。少し遅くなるかもしれない」
「来客?」
「うちの副社長。父の側近でもある。実は、君のことを気にしているらしい」
「私のこと?」
尚紀はスーツの袖を通しながら、少しだけ眉をひそめた。
「……“どれだけ朝比奈の名にふさわしい妻か”という意味で、だろうな。義母と繋がっている節もある」
その言葉に、私は息をのんだ。
「……お母さまが?」
「今朝、会社宛てに副社長名義で食事の招待が届いた。“奥様もご一緒に”とわざわざ書かれていた」
尚紀は穏やかに言うけれど、その目にはわずかな苛立ちが宿っていた。
「断ってもよかったんだけど……逃げてばかりもいられない。俺と一緒に来てもらえるか?」
「……はい」
頷いた声は、少しだけ震えていた。
けれど、それでも私は“隣にいる”と決めていた。
それが形式でも、契約でも、もう逃げる理由にはならない。
その夜、ホテルの個室で開かれた食事の席は、思ったよりも静かで格式高かった。
尚紀の隣に座る私は、やや緊張しながらも、出された料理に礼儀正しく箸を伸ばす。
朝比奈グループ副社長・小宮は、五十代後半の男性で、どこか旧世代的な価値観を滲ませる人物だった。
「咲さん、でしたね。……お若い。奥様にはちょっとおっとりとした印象を受けましたが、社交の場は慣れていらっしゃる?」
「いえ、あまり……至らない点が多いかと」
控えめに答えると、小宮は意味深に笑った。
「まあ、結婚とは時間をかけて磨いていくものですから。……ただ、会社の顔という意味でも、朝比奈家の奥様には“それなり”の品格を持っていただきたい。ねえ、尚紀くん」
「……必要があれば、俺が教える。咲に不足があると思ったことは一度もない」
尚紀の声は低く、しかし明確な拒絶の意思が込められていた。
けれど小宮は意に介さず、ワイングラスを軽く揺らす。
「先代が亡くなって以降、君もずいぶん変わった。人を遠ざけるようになったとも聞く。……それが奥様の影響でないことを祈るよ」
(まるで、私が“足を引っ張ってる”みたいな言い方……)
席の空気がじわじわと重くなるなか、私は咄嗟に話題を変えようと口を開いた。
「……先代の会長って、どんな方だったんですか?」
それは素朴な興味から出た言葉だった。
けれど、その瞬間、尚紀の手がふと止まった。
小宮も、わずかに目を細める。
「……そうだな。あの人は、厳しいが、情のある人だった。“約束は絶対に守れ”が口癖でね」
“約束”——
その言葉に、胸の奥が一気にざわついた。
(夢の中で、あの子が……“約束する”って)
ひどく懐かしい感覚。名前も顔も思い出せないのに、なぜか心が強く反応している。
帰宅したあとも、その言葉が頭から離れなかった。
“約束”という言葉だけが、ずっと胸の奥に残っている。
名前も、顔も、場所も思い出せないのに——
確かに、“待ってる”と言われた気がする。
そして、私は——“忘れてしまった”側なのではないかという罪悪感。
何を。誰を。どうして。
わからない。けれど。
「……何か、忘れちゃいけない気がする」
咲は小さく呟いた。
その言葉が、静かな部屋に滲む雨の音に紛れて、夜のなかへと溶けていった。



