雨が降り出したのは、夜の十時を過ぎた頃だった。
カーテンの隙間から覗いたガラス窓に、静かに水の粒が落ちては流れ、街の灯りを滲ませている。
「……すごい雨」
ソファで本を読んでいた咲は、カップを手にしたまま、窓の外を見つめていた。
静かな夜。静かな部屋。けれど、どこか落ち着かない空気が流れていた。
尚紀は書斎から出てきて、ネクタイを外したままリビングに入ってくる。
いつもは完全に崩さないその姿が、今日はどこかラフに見えた。
「冷えるな。暖房、少し上げようか」
「ううん、大丈夫。……けど、雷も鳴ってた」
「怖い?」
咲は小さく首を振る。けれどその動きは、どこかぎこちなかった。
(本当は、少し怖い。けどそれを言えば、近づいてしまいそうで)
尚紀のことを、彼の優しさを、今まで以上に“意識してしまう”のが怖かった。
だから距離を保ちたかった。けれど。
尚紀は、静かにソファの隣に腰を下ろした。
「咲」
その呼び方に、思わず心臓が跳ねる。
「……なに?」
「この生活に、少しは慣れた?」
「うん。尚紀さんが優しいから。……でも、私、ちゃんと“妻”になれてるのかは、よく分からない」
ぽつりとこぼれた言葉に、尚紀がゆっくりと顔を向けた。
「形式的でも、こうして君と時間を過ごせているだけで、俺は充分だよ」
そう言った彼の瞳が、いつもより少し近くて、熱を帯びている気がした。
「……尚紀さん」
言葉にするつもりはなかった。けれど、胸の奥から自然とこぼれた。
「……私ね。今日、ちょっと変な夢を見たの」
「夢?」
「うん。昔、誰かと約束をした夢。名前も顔も思い出せないのに、すごく懐かしくて、すごく寂しかった」
尚紀の表情が、ほんの一瞬だけ硬くなった。
咲はそれに気づかず、静かに続けた。
「もしかして、私は……誰かをずっと待ってたのかなって。誰かに、待たされてたのかなって。変なこと言ってるよね」
「……いいや、変じゃない」
尚紀の声は低く、ゆっくりだった。
そして彼は、静かに右手を差し出した。
「……手、いい?」
咲は驚いたように彼を見た。
けれど拒む理由もなく、ただそっと自分の手を預けた。
尚紀の指が、咲の細い指を優しく包み込む。
それだけで、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。
「咲」
呼吸が、近くなる。
「……俺、触れたいと思ったら終わりだと思ってた」
「え?」
「この結婚に感情を持ち込んだら、終わりだと思ってた。……けど、君と過ごすうちに、もう線が曖昧になってきてる」
その言葉に、咲は息を呑んだ。
「でも、今すぐ何かを求めたりはしない。……君が望まないことはしない。だから安心してほしい」
尚紀は手を握ったまま、そっと額を咲の肩にあずけた。
その姿が、あまりにも無防備で、どこか孤独で——
咲は思わず、彼の背中にそっと手をまわした。
静かな夜だった。
雨はまだ、窓を叩いている。
心が、近づいた。
名前も、過去も、何も知らないまま。
それでも、“今”を確かめるように、二人はそっと寄り添った。
その夜、咲は別の夢を見た。
淡い光の中、小さな男の子が手を伸ばしていた。
「さき、まってて。ぜったい、むかえにいくから」
小さな声。小さな約束。
けれどその夢は、次の瞬間に霧のように消えてしまった。
目を覚ましたとき、頬が濡れていることに気づいた。
(私……どうして、泣いてるの?)
けれどその答えは、まだ、わからなかった。
カーテンの隙間から覗いたガラス窓に、静かに水の粒が落ちては流れ、街の灯りを滲ませている。
「……すごい雨」
ソファで本を読んでいた咲は、カップを手にしたまま、窓の外を見つめていた。
静かな夜。静かな部屋。けれど、どこか落ち着かない空気が流れていた。
尚紀は書斎から出てきて、ネクタイを外したままリビングに入ってくる。
いつもは完全に崩さないその姿が、今日はどこかラフに見えた。
「冷えるな。暖房、少し上げようか」
「ううん、大丈夫。……けど、雷も鳴ってた」
「怖い?」
咲は小さく首を振る。けれどその動きは、どこかぎこちなかった。
(本当は、少し怖い。けどそれを言えば、近づいてしまいそうで)
尚紀のことを、彼の優しさを、今まで以上に“意識してしまう”のが怖かった。
だから距離を保ちたかった。けれど。
尚紀は、静かにソファの隣に腰を下ろした。
「咲」
その呼び方に、思わず心臓が跳ねる。
「……なに?」
「この生活に、少しは慣れた?」
「うん。尚紀さんが優しいから。……でも、私、ちゃんと“妻”になれてるのかは、よく分からない」
ぽつりとこぼれた言葉に、尚紀がゆっくりと顔を向けた。
「形式的でも、こうして君と時間を過ごせているだけで、俺は充分だよ」
そう言った彼の瞳が、いつもより少し近くて、熱を帯びている気がした。
「……尚紀さん」
言葉にするつもりはなかった。けれど、胸の奥から自然とこぼれた。
「……私ね。今日、ちょっと変な夢を見たの」
「夢?」
「うん。昔、誰かと約束をした夢。名前も顔も思い出せないのに、すごく懐かしくて、すごく寂しかった」
尚紀の表情が、ほんの一瞬だけ硬くなった。
咲はそれに気づかず、静かに続けた。
「もしかして、私は……誰かをずっと待ってたのかなって。誰かに、待たされてたのかなって。変なこと言ってるよね」
「……いいや、変じゃない」
尚紀の声は低く、ゆっくりだった。
そして彼は、静かに右手を差し出した。
「……手、いい?」
咲は驚いたように彼を見た。
けれど拒む理由もなく、ただそっと自分の手を預けた。
尚紀の指が、咲の細い指を優しく包み込む。
それだけで、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。
「咲」
呼吸が、近くなる。
「……俺、触れたいと思ったら終わりだと思ってた」
「え?」
「この結婚に感情を持ち込んだら、終わりだと思ってた。……けど、君と過ごすうちに、もう線が曖昧になってきてる」
その言葉に、咲は息を呑んだ。
「でも、今すぐ何かを求めたりはしない。……君が望まないことはしない。だから安心してほしい」
尚紀は手を握ったまま、そっと額を咲の肩にあずけた。
その姿が、あまりにも無防備で、どこか孤独で——
咲は思わず、彼の背中にそっと手をまわした。
静かな夜だった。
雨はまだ、窓を叩いている。
心が、近づいた。
名前も、過去も、何も知らないまま。
それでも、“今”を確かめるように、二人はそっと寄り添った。
その夜、咲は別の夢を見た。
淡い光の中、小さな男の子が手を伸ばしていた。
「さき、まってて。ぜったい、むかえにいくから」
小さな声。小さな約束。
けれどその夢は、次の瞬間に霧のように消えてしまった。
目を覚ましたとき、頬が濡れていることに気づいた。
(私……どうして、泣いてるの?)
けれどその答えは、まだ、わからなかった。



