乙女解剖学


 王子様は、淡々と流れゆく時間の波に呑まれて、いつしか忘却の彼方に消えていきました。夢見麗の夢物語は、これでお終い。面白みの欠片もない、現実主義的なアンチロマンスである。

 だが、生活はたしかに地続きだった。

 彼に背を向けて、ひとりこの街に帰ってきたあの日から今日まで、時間はたしかに連続しているのだ。一日一日を、この足で歩いたはず、なのである。

 それでも、3年の月日が経ってしまっていた。華の一女は悟りの四女になった。この言葉はどこかの誰かの受け売りであるが、実際に周囲の大学生で使っている人は見たことがない。

 何が言いたいかと言うと、あの夏の出来事は、今のあたしとは隔絶された過去にあるような気がしてならない、ということだ。

 それほどまでに、3年という時間には重みがあった。夢見麗が現実を知って、何かを諦めるのには十分な時間だった。それは仕方のないことだった。


 たまに思い出すことがある。あの夏の日々を。心が震えるほどに愛していた相手と一緒に過ごした、眩くて青いあの瞬間、あたしは確かに、あの人に触れていた。

 そんな日々を忘れまいと、当時のあたしはかたく決意したはずなのに。かなしいことかな、人間の脳は、新しい記憶を重ねるたびに、昔の記憶にノイズがかかるらしい。

 あたしは、忘れたくないあの夏の日を、過去のものにしようとしてる。





「まさか、ぼくよりも麗ちゃんの方が先に退職するなんてねえ」



 そんなふうに言って、寂しげに笑う嵐先輩に、差し入れの紙袋を押し付けた。中には贈り物用の、気取ったお菓子が入っている。

 季節が巡り、大学4年生の冬、寒さが深まる1月だった。コートに身を包んだあたしは嵐先輩を前にして、曖昧に笑う。

 春からの就職先も無事に決まったあたしは、4年間勤め上げた喫茶店のバイトを、今日、退職する。

 制服とエプロンはすでに洗って返したし、マスターにも挨拶をした。あとは、寂しそうにする嵐先輩を適当にいなして、別れを告げるだけだった。



「嵐先輩が居過ぎなんですよ。いったい、何歳までここで働くつもりなんです?」

「院生の間はきっと、続けるんだと思うよ。学振も通らないだろうし」

「じゃあ、可哀想だから、たまに来てあげます」

「たまにじゃなくて、たくさん来てね」



 学年でいえば2つ年上の嵐先輩は、本来ならば社会人2年目の年齢であるが、大学院に進学したこともあり、細々とこの喫茶店でのアルバイトを続けていた。彼は来春から博士課程に進学するらしく、まだこのバイトを辞めるつもりはないみたいだ。

 じゃあ、とその場を去ろうとしたとき、嵐先輩に引き寄せられる。



「ねえ、キスしてもいい?」