空蝉さんは。昨晩、王子様になってあたしを抱いた空蝉さんは、今、知らないひとを見るかのような目であたしを見ている。
ひどく単調で、諦めに満ちた顔をしている。そんな顔を、見たくなかった。見たくなかったはずなのに、あたしは何もできずに、彼にそんな顔をさせたまま、黙っていた。
怖かったからだ。
「借金は、僕が返済しますから」
空蝉さんに向かうふたりの男性はきっと、危ないところの人だ。漫画の世界で、闇金、というものを聞いたことがある。違法な金利で貸金業を営む人がいるということを、フィクションの中でだけ、知っていた。
空蝉さんのお父さんは、消費者金融の他に、この人たちからもお金を借りていた。闇金は、証拠を残さないために、借用書のコピーを債務者に渡さないと聞いたことがある。もちろんこれも、フィクションで得た知識だ。
書類が残っていないから、空蝉さんのお父さんがこの人たちからお金を借りたということに、空蝉さんは気付いていなかったのかもしれない。
すべてが繋がっていく。
空蝉さんは、どうなってしまうのだろうか。あたしの、あたしの、空蝉真は、また不幸を、不幸を継いで、それで、またひとりで、現実を、現実を見て、闘うのだろうか。いやだ。いやだ、いやだ、いやなのに、身体が動かない、声が出ない、こわい、いやだ、こわい。
声を出せないあたしをよそに、空蝉さんはひとりで、地に足をつけて立っていた。
「だから、そこの彼女と、母にだけは、関わらないでください」
空蝉さんは、自分を捨てて他所で幸せになったお母さんに借金を押し付けて、ここで帰ることだってできたはずなのに。
なのに彼は、お母さんとその新しい家族を、そしてあたしを守り、ひとり、暗い現実をまた背負おうとしてる。
彼の現実に、あたしはいない。
空蝉さんの冷ややかな視線に刺される。はやくここから去れと、そういうふうに言われている気がした。
ここから去れば、あたしは夢に逃げられる。空蝉さんだって、それを望んでる。だけど、だけどそうしたら彼は、また、ひとりで。
「……ご、めんな、さ、」
「はやく、おれのところからいなくなって」
瞬間、空蝉さんの唇がしずかに動いた。
お、れ、の、か、ち。
夢見麗を絶望させたら、空蝉真の勝ち。彼が勝てば、夢見麗は運命主義を棄てて、空蝉真との関わりを断たなければならない。そんな、おかしなゲーム。
あたしは今、運命を呪っていた。ゲームは、彼の勝ちだ。
だから空蝉真は、あたしがこれ以上自分に近づくことを許さない。あたしは、彼から離れて、運命主義も捨てて、これからは彼なしで、生きなければならない。
震える足で、走った。
空蝉真とは逆方向だった。
何もできないままに。
あたしは、彼の不幸を肩代わりすることもできず、夢を見させることもできず、ゲームの終わりという理由まで与えられて、正当に、彼の元から離れなければいけなかった。
それは、彼があたしを守るためだった。
発車時刻ギリギリで乗り込んだ在来線は、未練だけを乗せて走り出した。


