乙女解剖学



 一度腕をほどいて、彼から離れる。彼は名残惜しそうにしていた。あんなにあたしを嫌っていた空蝉さんがこんな顔をするだなんて、なんだかくすぐったい。

 彼の瞳の、子どもの部分がじっとこちらを覗き込んでいた。やけに現実ばかりを見るこの人の時間はきっと、子どもの頃まま、止まってる。

 でも、空蝉さんはこれから、自由になれる。



「だけど、空蝉さんを縛るものって、もうないはずですよね」



 唯一の肉親であるお父さんが亡くなれば、彼がこの土地に縛られる理由はなくなる。もうこれ以上お父さんの借金は増えないし、実家に仕送りをする必要もなくなる。

 だから、彼はもう自由なんだ。



「子どもだった空蝉さんがあのお家でどういうふうに過ごしていたかとか、空蝉さんが毎日何を考えていたかとか、あたしには想像が及ばないけど、でも、あたしはあたしの信念で、空蝉さんを好きなんです。あたしはあたしであって、空蝉さんとのお母さんとは違うから、あたしはあくまでも、空蝉さんの不幸を半分背負って、あなたが幸せに充てるための余剰を、つくってあげたいんです」



 そのためならあたしは今よりも不幸になったって構わないと、そんなふうに続けようとした矢先。

 空蝉さんが、ぐ、と頸のうしろを引いてきた。
 そのまま、引き寄せられる。

 縮まる距離に何かを期待してしまった。だけどキスをされるわけでもなく、ただ、鼻先が触れそうなほどに近い距離から、そっと、頭の中に響くような甘い声が与えられただけだった。



「……明日、海に行こうか」

「あした、?」

「そう。明後日帰るから、その前に。明日は、持ってきた服の中で、いちばん可愛い服を着て。麗がいちばん、かわいいと思う格好で」



 触れそうで触れない唇の距離に眩暈がする。この瞬間、何かが変わる予感がした。