空蝉さんの言葉を咀嚼する。あたしの中に生まれた感情は、うれしい、でもなく、幸せ、でもなく、びっくり、でもなくて、「やっぱり、そうか」という納得だった。
この1週間とすこしの間。空蝉さんはずっと、ゆるやかに優しかった。少なくともそれは、嫌いな人に対する態度ではなかった。
だけどあたしは、あえて彼の変化に気づかないふりをしていた。彼のお父さんの遺品整理をしているこの状況で、そんなことを言うのは野暮だと思っていたからだ。
でも、気づいてた。空蝉さんからの態度がやわらかく、そしてあたたかくなっていたこと。そしてその変化は、ここでの生活を重ねるにつれ、すこしずつ色濃くなってきたということも。
「空蝉さん、あたし、」
「麗。おれの話、聞いてくれる? 長くなるけど」
あたしの言葉を遮るように、空蝉さんが言う。窓を背にして立ったあたしと、あたしに向かい合う位置で机に寄りかかる空蝉さんの視線が交錯した。
「死んだ親父は、アル中の、どうしようもない奴だった」
ぽつり、ぽつりと、彼の口から、感情が、出来事が、経験が、こぼれ落ちて行く。
「親父、元々はこの土地で自営業をやってた。だけど先の不景気で経営が立ち行かなくなって、会社を畳んだ。いい歳した親父をそこから雇ってくれる会社なんてどこにもなくて、それからは、酒、煙草、暴力、ギャンブル、借金のフルコース」
海風が窓のふちを伝って、教室に流れ入る。
「おれの母親は、あなたに似て、ふわふわした感じの、世間知らずなお嬢様だった。働いたこともないし、難しいことはわからないっていって、現実をぜんぶ親父に押し付けて、ずっと、親父のことを王子様みたいに神格化してた。だから母親は、職を失ってすっかり変わってしまった親父が、前みたいな王子様に戻ることを信じてた」
ぬるい温度を纏った風が、空蝉さんの髪の毛を揺らす。
「だけど、働き口のない親父は、どこにも雇用されない鬱憤を母親への暴力で発散して、酒と煙草と、ギャンブルに走って、どんどん荒んでいった。母親はそれでも親父のこと信じてて、それがプレッシャーになって親父はもっと焦って、うまくいかなくて、負の感情は暴力になってまた母親を傷つけた。生活が苦しくなってきて、あの母親がスーパーのレジ打ちの仕事始めて、家計を支えようとしたの。だけど親父はその金すらパチンコに使って。……正直、ゴミじゃん。それなのに、母親は親父を信じたままで。食う金がなくなっておれが痩せ細っても泣きながらごめんねって言うだけで親父には何も言わなかった。結局母は、外に別の男作って、蒸発して、借金だらけのダメ親父をおれの元に残して、自分は逃げたんだ。王子様に相手にされないから、別の王子様を作って、おれのことは、おれのことは、置いていった」
あたしが何を言ったとしても、それはきっと、何の慰めにもならないのだろうと思ってしまった。
実際にその立場に置かれた者にしかわからない苦痛がある。それを理解したくても、あたしには届かない。届いてはいけないもの、であるような気もする。
あえて何かを言うとすれば。彼は事実を並べるだけで、くるしかった、とか、かなしかった、とか、そういう自分の思考や感情を言葉にはしなかった。あたしにとっては、空蝉さんに起こった事実よりも、それがどうしようもなく悲しかった。


