乙女解剖学



 嵐先輩の家に定期的に通うようになったのは、坂本くんと別れた後、つまり空蝉さんとの奇妙な関係が始まったのとほぼ同時期だ。

 始まりなんてすごく些細なこと。坂本くんと別れたばかりで、空蝉さんとの関係性のはじまりに悩んでいたあたしの心をそっと埋めたのが嵐先輩だった。ただ、それだけ。


 先輩に大した相談はしていない。だけど先輩は、そばにいてご飯を食べさせてくれて、あたしがするとりとめもない話を傾聴してくれる。あたしは、空蝉さんとの関係によって生まれたほんのすこしの緊張感をほどいてくれる先輩に甘えている。


 嵐先輩はたぶん、あたしのことが好きだと思う。

 好き、というのは、たぶんラブじゃなくてライクのほう。バイト先の2つ歳下の後輩を、妹のように可愛がっているとか、たぶんそういうのだ。

 だから嵐先輩とも、性的な行為をしたことはない。先輩はただ、ちょっとだけ寂しがり屋で、ちょっとだけ弁が立つ、ちょっとだけやさしい人だから、だれとでも身体を重ねるタイプ、ではないと思う。たぶん。


 空蝉さんの部屋とは違って、オートロックじゃない簡素なアパートにたどり着く。

 2階にある部屋の前でインターホンを押すと、少し待った後に薄く扉が開く。いつも通りの嵐先輩があたしを出迎えた。



「いらっしゃい。今日はもう来ないかと思った」

「そういう気分だったので」

「男と男を渡り歩く気分だなんて、破廉恥なお姫様だね」



 促されるがままに中に入り、扉を閉めようとしたとき、嵐先輩があたしのワンピースの裾を押さえながら「裾、危ない」と言った。扉に服の裾を挟みそうになっていたらしい。



「ご飯、食べてきた?」

「食べてないです」

「そう。唐揚げと、生姜焼き、どっちがいい? 両方冷凍だけど、余った方はぼくが食べるから」



 どちらでも良いので、なんとなく生姜焼きを選ぶ。嵐先輩は一人暮らし用のあまり大きくない冷凍庫を開けて、中から一人分の生姜焼きパックを取り出した。そのまま電子レンジに入れる。彼は生活感という言葉がよく馴染む人だ。