乙女解剖学



 お店の入り口に視線を伸ばした瞬間、ぱっと世界が鮮やかになる。恋をするってこういうことなんだなと、あまりにも陳腐な思考がやってきた。

 恋愛脳、という言葉がある。恋愛をすると合理的な判断ができなくなるらしい。あたしは空蝉さんに会うたびに頭がわるくなっているのかもしれない。



「空蝉さん、来てくれたんですか?」



 彼は少しだけ伸びた前髪を邪魔そうにしながら、まっすぐとこちらにやってきた。

 飲食店で勤めたことがある人ならわかるだろうが、お客さんは来なければ来ないだけ楽だから、いつだって誰も来店しないようにと願っている。だけど空蝉さんに限っては歓迎なので、お願いだからあなたは毎日ここに来てほしい、だなんて。



「うん。いつものやつ、頂戴」

「わかりました」



 後ろに立っていた嵐先輩に目配せをしながら、口パクで商品名を伝えると、先輩は奥からお土産用の紅茶の茶葉を持ってくる。

 それを受け取り、レジを操作しながら、空蝉さんの耳介にぽつり打たれているほくろを盗み見た。


 運命がねじれたあの日から、1ヶ月ほどが経過していた。まるで生まれて初めて見た個体を母親と認識して、それをひたすらに追いかけるハイイロガンのように、あたしはあの日出会った空蝉さんを運命の人だと思って疑わない。

 今日も相変わらず麗しい彼は、ほっそりとした指で財布を開ける。生活感たっぷりの仕草なのに、いちいち目に眩しい。

 空蝉さんは時たま、あたしのバイト先に来ては、茶葉を買って帰ってくれる。決して店内で過ごしていくことはないけれど、彼が来てくれる期待を持ちながら働くのは、悪くないと思えた。



「麗、元気にしてた?」

「……ふつう、です」



 いつの間にか呼び捨てられるようになった下の名前には全然慣れなかった。だけどもっと呼んでほしかった。あたしはずっと傲慢だ。