午前十時すぎ、デスクワークがひと段落し、私は専務執務室へと足を運ぶために席を立った。
手に持っているのは、朝の定例会議に向けた進行資料と、ホットティーが入ったカップ。
今日のお茶は、アールグレイ。
少しだけ悩んだ末の選択だった。
本来なら、業務の一環として“その日の気温と体調に合いそうなもの”を出すのが秘書としての心得だと、教わっていた。
でも、今日は……ちょっとだけ、違った。
先日、ふとした合間に彼が、ほんの少しだけ表情を緩めて紅茶を口にした瞬間があった。
(あ……今、ちょっと嬉しそうだったかも)
それが、アールグレイだった。
柑橘の爽やかな香りと、柔らかい渋み。
ビジネスの合間に口にするには、少しだけ華やかすぎるけれど――だからこそ、あの人が“好きそうな味”だった。
(たぶん、あの時だけ……ちょっとだけ、気を緩めてくれたんだ)
そんな記憶が、指先の選択に影響を与えていた。
「……いけないな、これじゃまるで」
恋人に淹れるお茶のように迷っている自分が、どこかおかしくて、でも止められなかった。
(“業務”の一環だって思いたいのに)
(でも、どこかで“あの人に喜んでほしい”って、思ってる)
その想いを、ぐっと飲み込んで執務室の扉をノックした。
「失礼します。お茶をお持ちしました」
「ああ」
専務は、今日もいつものようにデスクに向かっていた。
タイピングする手を止め、わずかに目線だけをこちらに寄越す。
私は静かにカップを置き、資料を添えて差し出す。
そのときだった――
専務のまなざしが、ほんの一瞬だけカップにとどまり、わずかに眉が動いたように見えた。
「あ……」
喉の奥に、言葉にならない息が引っかかる。
(……気づいた?)
このお茶が、以前出したときと同じものだということに。
そして、そのとき自分が少し表情を緩めたことを――もしかして、覚えていたのだろうか。
もしくは、私の方が“覚えている”ことに、彼が気づいたのかもしれない。
それは、あまりにもささやかな一瞬だった。
でも私の心は、そのわずかな反応だけで――ドクン、と音を立てて跳ねた。
(ダメだって、分かってるのに)
恋じゃない。
業務の中での些細な気遣い。
そう自分に言い聞かせようとするたび、心の奥で反対の声がする。
(……私、もうこんなことでドキドキしてる)
(もう、あの人のことを“ただの上司”としては見られない)
執務室を出たあとも、動悸はなかなか収まらなかった。
デスクに戻ってからの書類整理の手元が、いつもよりほんの少しだけ丁寧になる。
言葉にすればするほど、明らかになってしまいそうで、口には出さない。
でも心の中では、はっきりとした欲が芽生えていた。
(もっと、あの人のことを知りたい)
どんな香りが好きで、どんな味を好み、どんな瞬間に疲れを感じ、どんな言葉に笑うのか。
その“当たり前の顔”の奥にある、本当の彼を、もっと知ってみたいと思ってしまう。
(でも……好きになっちゃ、ダメなのに)
一度そう思ってしまうと、次から次へと自分の行動が“好き”に変換されてしまう。
彼の歩き方、書類に目を通す速さ、シャツの袖をまくるタイミング――
そんなものまで目がいってしまうようになっていた。
気づけば、彼がいる場所を、自然と視界に収めてしまっている。
話しかけられるたびに、返す声のトーンを無意識に柔らかくしている。
そんな自分に気づいて、また慌てて顔を伏せた。
(何やってるの……私)
それでも、胸の奥は確かに言っている。
――もっと、知りたい。
帰り際。
残業を終えてフロアを出ようとしたとき、ちょうどタイミングを合わせたように専務がエレベーターに乗ろうとしていた。
「……お疲れさまです」
「お疲れ」
短いやりとり。
でも、その声が、ほんの少しだけ“やわらかい”と感じてしまう私は、もう完全に、彼に心を向けていた。
一緒に乗ったエレベーターの中、静まり返る空間で心臓の音が耳元で響く。
エレベーターの階数が、静かに下りていく。
彼は、ただ前を見ている。
でも私は――横顔から目が離せなかった。
あの人の“本当の顔”を、もう少しだけ見てみたい。
笑ったときの瞳の奥。
疲れたときの沈黙の意味。
無言で差し出す書類の受け取り方、ペンを置く瞬間の癖。
紅茶を口にしたあと、どこを見るのか。
そんなものまで、ぜんぶ、知りたくなってしまう。
(……どうして、こんなに)
好きになっちゃ、ダメなのに。
そう思えば思うほど、気持ちは深くなっていく。
この人に、笑っていてほしい。
この人に、私の仕事を喜んでほしい。
そして、できることなら――
その隣で、ずっとその表情を見ていたい。
そんな想いが、胸の奥に静かに根を張っていた。
帰宅後。洗面台の前で髪をほどくと、鏡の中に映る自分の顔が、わずかに赤く火照っていた。
「また、ドキドキしてたんだな……私」
誰に見せることもない、たった一人のために。
名前を呼ばれたとき、笑顔を向けられたとき、些細なことに心が動いてしまう。
でも――
(この気持ち、大事にしたい)
たとえ報われなくても。
たとえ、誰にも言えなくても。
この“知りたい”という気持ちの奥には、たしかな“好き”がある。
私は、あの人のことを――もっと、知りたい。
それが、今の私の正直な気持ちだった。
手に持っているのは、朝の定例会議に向けた進行資料と、ホットティーが入ったカップ。
今日のお茶は、アールグレイ。
少しだけ悩んだ末の選択だった。
本来なら、業務の一環として“その日の気温と体調に合いそうなもの”を出すのが秘書としての心得だと、教わっていた。
でも、今日は……ちょっとだけ、違った。
先日、ふとした合間に彼が、ほんの少しだけ表情を緩めて紅茶を口にした瞬間があった。
(あ……今、ちょっと嬉しそうだったかも)
それが、アールグレイだった。
柑橘の爽やかな香りと、柔らかい渋み。
ビジネスの合間に口にするには、少しだけ華やかすぎるけれど――だからこそ、あの人が“好きそうな味”だった。
(たぶん、あの時だけ……ちょっとだけ、気を緩めてくれたんだ)
そんな記憶が、指先の選択に影響を与えていた。
「……いけないな、これじゃまるで」
恋人に淹れるお茶のように迷っている自分が、どこかおかしくて、でも止められなかった。
(“業務”の一環だって思いたいのに)
(でも、どこかで“あの人に喜んでほしい”って、思ってる)
その想いを、ぐっと飲み込んで執務室の扉をノックした。
「失礼します。お茶をお持ちしました」
「ああ」
専務は、今日もいつものようにデスクに向かっていた。
タイピングする手を止め、わずかに目線だけをこちらに寄越す。
私は静かにカップを置き、資料を添えて差し出す。
そのときだった――
専務のまなざしが、ほんの一瞬だけカップにとどまり、わずかに眉が動いたように見えた。
「あ……」
喉の奥に、言葉にならない息が引っかかる。
(……気づいた?)
このお茶が、以前出したときと同じものだということに。
そして、そのとき自分が少し表情を緩めたことを――もしかして、覚えていたのだろうか。
もしくは、私の方が“覚えている”ことに、彼が気づいたのかもしれない。
それは、あまりにもささやかな一瞬だった。
でも私の心は、そのわずかな反応だけで――ドクン、と音を立てて跳ねた。
(ダメだって、分かってるのに)
恋じゃない。
業務の中での些細な気遣い。
そう自分に言い聞かせようとするたび、心の奥で反対の声がする。
(……私、もうこんなことでドキドキしてる)
(もう、あの人のことを“ただの上司”としては見られない)
執務室を出たあとも、動悸はなかなか収まらなかった。
デスクに戻ってからの書類整理の手元が、いつもよりほんの少しだけ丁寧になる。
言葉にすればするほど、明らかになってしまいそうで、口には出さない。
でも心の中では、はっきりとした欲が芽生えていた。
(もっと、あの人のことを知りたい)
どんな香りが好きで、どんな味を好み、どんな瞬間に疲れを感じ、どんな言葉に笑うのか。
その“当たり前の顔”の奥にある、本当の彼を、もっと知ってみたいと思ってしまう。
(でも……好きになっちゃ、ダメなのに)
一度そう思ってしまうと、次から次へと自分の行動が“好き”に変換されてしまう。
彼の歩き方、書類に目を通す速さ、シャツの袖をまくるタイミング――
そんなものまで目がいってしまうようになっていた。
気づけば、彼がいる場所を、自然と視界に収めてしまっている。
話しかけられるたびに、返す声のトーンを無意識に柔らかくしている。
そんな自分に気づいて、また慌てて顔を伏せた。
(何やってるの……私)
それでも、胸の奥は確かに言っている。
――もっと、知りたい。
帰り際。
残業を終えてフロアを出ようとしたとき、ちょうどタイミングを合わせたように専務がエレベーターに乗ろうとしていた。
「……お疲れさまです」
「お疲れ」
短いやりとり。
でも、その声が、ほんの少しだけ“やわらかい”と感じてしまう私は、もう完全に、彼に心を向けていた。
一緒に乗ったエレベーターの中、静まり返る空間で心臓の音が耳元で響く。
エレベーターの階数が、静かに下りていく。
彼は、ただ前を見ている。
でも私は――横顔から目が離せなかった。
あの人の“本当の顔”を、もう少しだけ見てみたい。
笑ったときの瞳の奥。
疲れたときの沈黙の意味。
無言で差し出す書類の受け取り方、ペンを置く瞬間の癖。
紅茶を口にしたあと、どこを見るのか。
そんなものまで、ぜんぶ、知りたくなってしまう。
(……どうして、こんなに)
好きになっちゃ、ダメなのに。
そう思えば思うほど、気持ちは深くなっていく。
この人に、笑っていてほしい。
この人に、私の仕事を喜んでほしい。
そして、できることなら――
その隣で、ずっとその表情を見ていたい。
そんな想いが、胸の奥に静かに根を張っていた。
帰宅後。洗面台の前で髪をほどくと、鏡の中に映る自分の顔が、わずかに赤く火照っていた。
「また、ドキドキしてたんだな……私」
誰に見せることもない、たった一人のために。
名前を呼ばれたとき、笑顔を向けられたとき、些細なことに心が動いてしまう。
でも――
(この気持ち、大事にしたい)
たとえ報われなくても。
たとえ、誰にも言えなくても。
この“知りたい”という気持ちの奥には、たしかな“好き”がある。
私は、あの人のことを――もっと、知りたい。
それが、今の私の正直な気持ちだった。



