「日菜は僕に恋してるのに、なんであれくらいで出ていったんだ?」

 悠真さんは不思議そうに質問してきた。
 鷹士さんが引き留めてくれなければ、私は悠真さんの許に舞い戻っていたかもしれない。
 見透かされていたことに唇を噛み締める。
 
「待ってくれていると思っていた。二人きりになったとき、綾華から仮面結婚の件を提案されたんだ。家に帰ったら説明しようと思ったのに」

 寂しそうに言われた。
 私が悪いの?

「半年も連絡よこさないから、待ちくたびれたよ。許してあげるから、僕の傍に戻っておいで」

 悠真さんとの間に、分かり合えない壁を感じる。
 虚しくなり、私は太ももの上に置いた手に視線を落とした。
 ごく自然に、左手の薬指の金属に目が吸い寄せられる。

 鷹士さんと私の、結婚指輪。
 職場では外しているけれど、帰るとき無意識に嵌めていたんだ。

 イタリアでの結婚式が脳裏に浮かぶ。

『私、賀陽鷹士は終生、日菜乃を愛し守り、幸せにすることを誓います』

 あのときの、鷹士さんの真剣な眼差し。
 愛が込められた口調。
 甘さと熱を孕んでいた、黒真珠のようだった双眸。
 あれがみんな偽り?

 だとしても!

「日菜?」
 
 呼びかけられて咄嗟に訂正した。

「日菜乃です」

 悠真さんを睨みつける。
 
「あ、あ。そうだね」

 なぜか、悠真さんがたじたじだ。
 けれど私は構わず宣言した。

「私は、宗方家の使用人ではありません」

 悠真さんの家では、使用人を名前からとったふた文字の愛称で呼んでいた。
 宗方のおじ様もおば様も、そして悠真さんでさえ私を「日菜」と。

「わかっている。僕の恋人だよね」

 猫なで声って感じ。
 ちらと見れば、悠真さんがご機嫌をとるような表情を浮かべていた。
 悠真さんがなにかをしでかして、珍しく私が怒ったときにする顔。

 そうか。私、怒っているんだ。

「私は賀陽日菜乃。鷹士さんが夫です」
「それは偽りのもので」

 悠真さんの言っていることなんか、信じない。