第九話
〇 雨宮家・雫の部屋(週末・夜)
週末の夜、雫は自室のベッドに腰掛け、ナイトランプの柔らかな光の中で、お気に入りのアニメのキャラクターが描かれたマグカップをそっと抱えていた。中には、温かいミルクティー。ほんのりとした甘さが、少し不安な心を落ち着かせる。
彗からの連絡は、あの秘密基地での思いがけない別れ以来、途絶えていた。電話に通知が届くたびに、ドキッとするのだが、画面に表示されるのは、いつも予想通りのグループチャットのメッセージや、SNSの通知ばかり。
雫の心の声:(彗…どうしたんだろう? あんなに急に重要な用事ができたって言ってたけど…何かあったのかな…? 私に、話せないこと…?)
窓の外では、夜の静けさの中に、ときおり自動車の走行音や、遠くで聞こえる楽しそうな笑い声が混じり合う。以前なら、そんな何気ない日常の音も、今日はどこか遠く、他人事のように感じてしまう。
あの秘密基地で見た、彗の少し険しい表情が、何度も脳裏をよぎる。電話の画面に映っていたのは、一体何だったのだろう? そして、あの時、彗が少し動揺していたように見えたのは、気のせいだろうか?
雫は、マグカップの中のミルクティーを一口そっと啜った。甘さの中に、ほのかな苦味が混じっているような気がした。
その時、雫の妄想の中には、また新たなキャラクターが姿を現していた。それは、長い黒髪を風になびかせ、物憂げな表情で夜の街を見下ろす少女。冷たい光を宿した瞳は、どこか隠された悲しみや決意を湛えているようだ。彼女は、白石ユキの隠された一面が具現化した姿なのだろうか? 彗の抱える「重要な用事」に、深く関わっているのかもしれない…。
雫の心の声:(ユキさんは…一体、何を考えているんだろう? 彗にとって、どんな存在なんだろう…? あの時、私に向けられた冷たい視線は…もしかして、恋敵…?)
そんな考えが頭をよぎると、胸の奥が少しチクリと痛んだ。今まで、彗のことを単なる幼馴染としてしか見ていなかったはずなのに、彼の身に何か起こっているのではないかという不安と共に、今まで感じたことのない、複雑な感情が湧き上がってくる。
ふと、部屋の隅に立てかけられた、お気に入りのアニメのフィギュアが目に入った。ヒロインは、困難に立ち向かう強い眼差しで、今日も雫を見つめている。
雫の心の声:(そうだ…あのヒロインみたいに、私もただ心配するだけでなく、もう少し積極的に行動を起こすべきなのかもしれない…でも…一体、何をすれば…?)
その時、雫の電話が、控えめなバイブレーションで通知を知らせた。心臓がドキッと跳ね上がる。画面を見ると、表示されていたのは、待ち望んでいた「彗」の名前だった。
メッセージの内容は、短いものだった。
彗:「明日、いつもの駅前のカフェで、少しだけ話せないかな?」
その短い一文が、雫の悲しい心に、小さな明るい灯をともした。思いがけない連絡に、不安よりも先に、わずかな希望が湧き上がってくる。
雫の心の声:(彗から…連絡が来た…! 明日、会えるんだ…! 一体、何を話してくれるんだろう…? あの時の重要な用事のこと…? それとも…私のこと…?)
心臓が、再び早い鼓動を打ち始める。不安と期待が入り混じり、頭の中が熱くなる。
そっと指先で画面をタップし、返信を作成する。
雫:「うん、大丈夫。何時に行く?」
送信ボタンを押した後も、興奮はなかなか収まらない。すぐに彗から返信が来た。
彗:「ありがとう。明日、五時で大丈夫かな?」
雫:「うん、大丈夫。」
短いやり取りだったが、その一つ一つの言葉が、雫の心に深く刻まれていく。明日、彗に会える。それだけで、今日までの不安が、嘘のように遠くへと吹き飛んでいくような気がした。
雫は、マグカップに残った温かいミルクティーをゆっくりと飲み干した。ナイトランプの光が、いつもより少し明るく感じられる。
明日、彗に会ったら、何を話そう? あの日の電話のこと…? ユキさんのこと…? それとも…自分の気持ち…?
様々な思いが頭の中を駆け巡るが、最終的には、ただ彗の顔を見て、彼の声を聞ければ、それでいいと思えた。
雫は、ベッドからそっと立ち上がり、窓の外を見上げた。夜の星空が、今日はひときわ綺麗に輝いているように見える。
雫の心の声:(明日…きっと、何か変わる…)
微かな希望を胸に、雫はベッドへと潜り込んだ。ナイトランプの光を消すと、部屋は深い闇に包まれたが、雫の心の中には、明日への明るい期待が、小さな灯火のように揺れていた。
〇 駅前・カフェ(翌日・夕方)
約束の五時少し前、雫は駅前のカフェの前に立っていた。夕暮れの光が、カフェのガラス窓から温かいオレンジ色の光を漏らしている。行き交う人々は、それぞれ家路を急いでいるようだ。
雫は、少し緊張しながら、カフェのドアを開けた。ベルの音が、小さく店内に響く。以前にも何度か来たことがあるこのカフェの、落ち着いた雰囲気は、今日は少しだけ特別なものに感じられる。
奥の席を見渡すと、すでに彗が窓際の席に座って、温かいコーヒーを飲んでいるのが見えた。夕焼けの光を浴びて、彼の横顔は、相変わらず優しく、そして少し憂いを帯びているようにも見える。
雫は、そっと彗の席へと近づいた。彗は、雫に気づくと、顔を上げ、いつものように優しい笑顔で迎えてくれた。
彗:「雫、来てくれてありがとう。」
その声を聞いた瞬間、雫の心臓のドキドキが、再び大きくなった。
雫:「うん…こちらこそ…」
緊張のあまり、声が少し上ずってしまう。
彗:「座って。何か飲む? 僕が注文してくるよ。」
雫:「あ、ありがとう…じゃあ、アイスティーで…」
彗がカウンターへ飲み物を注文しに行っている間、雫はそっと椅子に腰掛けた。周りの騒音や、他の客たちの会話が、今日はなぜか耳に入ってこない。ただ、カウンターに立つ彗の背中を、じっと見つめていた。
やがて、彗はアイスティーと、自分の頼んだらしいコーヒーを持って戻ってきた。
彗:「どうぞ。」
丁寧にアイスティーを雫の前に置くと、彗は向かいの席に腰掛けた。
彗:「今日は、少し改まって話したいことがあって…」
彗の言葉に、雫はドキッとした。やはり、あの日の電話のことだろうか? それとも…?
彗は、少し深呼吸をした後、真剣な瞳で雫を見つめた。
彗:「あのね、雫…実は…」
彗が、そっと、言葉を紡ぎ始めた。彼の表情は、決意と、ほんの少しの不安が入り混じっているように見える。夕暮れの光が、カフェの窓から差し込み、二人の顔を温かく照らしていた。彗の語り始める言葉は、雫にとって、予想していたものとは、少し違う方向へと向かっていた――。