「っ、はな、して」
現役時代、
大きく期待されながら何度も舞台に立ち、けれど思うような結果が出せず
自分を追い込むだけ追い込み、クスリに手を出してしまった仲間がいた。
思い出す。
あの子の口から放たれていた異臭。
溶けて、隙間ばかりが目立つ前歯。
「…来い」
いつの間に合わなくなってしまった視点を。
異様なほど散らかった、あの子の部屋を。
はっきりと思い出す。
男は乱雑に私の腕を引き、人目に付きにくい狭い道へ入り込むと
「っ、いっ」
コンクリートで出来た塀へ、私の背中を投げるように押し付けた。
息の詰まるような鈍痛が背中を走る。
痛い。
どれだけ暴れてみても、押さえられた手首はビクともせず。ようやく目に涙が滲む。
「…」
力じゃ適わない。
どうしようもない恐怖に伴い、悔しさが込み上げ
口を真一文字に結ぶ私に、男は何も言わずに。
まさぐるように私のブレザーへと手を伸ばす。
襲われると直感する。
幸いだったのは、どうやら違法なクスリを常用しているらしい男の指先が、思ったよりもそれらに毒されていたこと。
「、っやめて」
逃げなければならない。
辛うじて自由の効いた右足で男の爪先を踏み潰すと、片手で押さえられていた手首が解放され
今だ、ここだ走ろうと背を向けるが、すかさず後ろ髪を引っ張られる。
鋭く頭皮に痛みが走った。
何本も、髪が抜けた音がした。
私が間違っていた。
男と女だから。
力が無いから。
喧嘩が出来ないから。
この世界は、私にちっとも優しくない。
知らなかった。
この脚も、腕も。
「なんの役にも、立たない…」
納車日から一度も外に出されることなく、家の車庫の奥に仕舞われたままの神風を思い出す。
川本さんはああ言ってくれたけど。
結さんもああ言ってくれたけど。
私はもう
もう、走っちゃいけないのだと思う。
そうだたしかに。
たしかにあの日
あの手を、掴まなかった。
乾いた声が脳を刺す。
「死ねよ、お前」
