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「──お姉さん、」
これ、落としたよ。
背後から響く声に迷わず首を捻った。
最寄りの駅で電車を降り一人で歩くこと、数分。
「え、あ、すみません」
ありがとうございますと流れるように差し出した右手が、相手の手へと届く、すんでのところで停止した。
骨ばった右手に握られている、桃色のハンカチ。
見覚えはない。
「これ、私のじゃないです」
「あ、ほんと?」
「はい…すみません」
ぺこり、頭を下げて踵を返す。
なんとなく手持ち無沙汰で、スマホを操作し、片耳を流れるプレイリストを変えた。
その時。
先程まではたしかに方向を違えていたはずの足が、私を一歩追い越したのが分かった。
唐突に顔を覗き込まれ思わず後退る。
男が怪しく笑い、私の頭はようやっと答えに辿り着く。
「残念、似合いそうなのに」
「え、っと…あはは」
「でさ。ここで会ったのも何かの縁だし、遊ぼうよ今から、ちょっとだけ」
「いや、すみません急いでて」
「いいじゃんいいじゃん、帰りちゃんと送るから」
汚く色の抜けた頭髪。
唇を貫通するチェーンが痛々しい。
(…ナンパなんて滅多にされないのに)
頭を抱えた。
今日はなんだかツイてない。
「いや、ほんとに大丈夫です」
「ええ、じゃあ連絡先は?ライン、交換してよ」
インスタでもいいけど。形の悪い歯を見せ笑う男を横目に歩みを速めるが、どう足掻いても大して足が速いわけでもない私と男との間に、一メートルも距離があかない。
誰が交換するかブス、ぐらい吐き捨てられる器量が私にあれば良かったのだろうけれど。
誘いに頷くこともろくに振り払うことも出来ないまま、家への距離だけが縮まって行く。
焦りと共に苛立ちが募り
明らかに安全そうでない見目の男を前に、プツンと、何かが切れるのを感じた。
「っ、行かないって言ってるでしょ」
どうして。
どうして私ばかりが、こんな目に遭わなくてはならないのだろう。
「…ていうか、明らか制服のJK追っ掛け回して相手にされないとか」
鼻から薄く息を零す。
私は本当に、詰めが甘い。
「虚しすぎ」
男が一瞬足を止めた。
止まらない口が、さらなる雑言を運ぶ。
「…誰からも相手にされないからって…ダッサ」
馬鹿な私は知らなかったのだ。
世の中には、どんな状況であっても立ててはいけない波風があること。
どれほど悔しかろうが、理不尽だろうが。
己を守るための“最適解”を探すべき時があるということ。
それが、今だということ。
気が付かなかった。
男の右手が、迷わず私の胸元へと伸びるその時まで。
感じたことの無い屈辱に、人間はこうもゆでダコのようになるのだと。
ナメやがって
ほとんど声になっていなかったと思う。
襟元を締め上げられながら、独特の口臭に顔を歪める。
(やっちゃったかも)
そこでやっと気が付いた。
自分が、弱者であることに。
