あれから一ヵ月後。
「お母さんがテニス部なら入っていいって言ってくれたの!すごく優しいと思わない?」
心がそう言っていたのは、確か六月の、梅雨明け頃だった。
いつものように芽流やアオと雑談をしていたら、聞こえてきたそんな声。
「テニス部に入っていい」、つまり、心は男女合同テニス部に入るのだろうか。
嬉しい、とても嬉しい。そんな思いを芽流に悟られないように、静かに唇を噛み締めた。
「えっ、ちょ、私行ってくる!」
アオが動揺を隠し切れないのか、困惑しながらも心の方へと向かう。
きっと、それが本当なのかの確認だろう。アオは小走りで一軍達を押し退け、「今の本当!?」と興奮気味に聞いている。
二人の会話に耳を澄ませようとするも、芽流に話しかけられて殆ど聞こえなかった。
「それでね?これがこうなってー」
芽流の話に相槌を打ちながら、必死にアオの声に耳を傾ける。全然聞こえない、早く知りたいのにな。
「…で、その問題が――」
悪いけど、今芽流の話を聞いている場合じゃないんだ。心が部活に入るかもしれない、重要なことだから。
そんなことを口に出せるわけがなく、グッと言葉を呑み込む。アオ、早く戻ってこないかな。
「ほんと……それで…あ…る」
アオは、何やら雑談をしているようだった。なんだよ、部活の話、もう終わったのか?
それなら、早く報告してくれればいいのに。雑談なんか、まだする仲じゃないだろ。
でも、もし心が本当に入部してくれるなら、嬉しい。早く、心とプレーをしたい。サーブ綺麗だったから、コツとか聞きたいな。絶対同じペアになったら強そうだよな。
そんな想像をどんどん膨らませるも、「るい?」と俺の名前を呼ぶ芽流の声で、我に返った。
「…るい、聞いてる?」
「…あ、ごめん、ボーッとしてた」
正直、今は部活のことで頭がいっぱいだ。雑談をする気分には、到底なれなかった。
「どうしたの、疲れてる?…やっぱり、あの今田さんとかいう人になんかされたんじゃ…」
「っ、違うから!安心して?」
最近、芽流は何かと心のことを悪く言うことが増えた。あの嫉妬の一件から、顔に出していた「嫌悪」が明らかに口に出ている。
そんな想像をどんどん膨らませるも、「るいー?」と俺の名前を呼ぶアオと芽流の声で、我に返った。
「…アオ、心のこと、どうだった?」
わかりきっていることを、わざと質問する。
「マジで入るって言ってた!入部届今日出すらしいし、明後日くらいには来るんじゃない?」
アオはよっぽどテンションが上がったのか、変な鼻歌を歌いながら軽いダンス?なのか、舞なのか。よく分からない動きをしている。
俺も実際めちゃくちゃテンションが上がっているし、アオと一緒になって変な舞をしてもいいくらいなんだけど。
問題は、芽流だ。
俯いて、考え込む仕草をしている。やっぱり、心の入部は気に障るのだろうか。
「…芽流?」
恐る恐るという感じで、芽流に声をかけてみる。怒らせないように、この前みたいにならないように。だって、芽流には綺麗なまんまでいてほしかったから。
「ううん、大丈夫。今田さんとの部活、楽しんできて」
芽流は、「大丈夫」と笑顔で言った。
でも、その言い方は、どこか酷く冷たく感じた。
嘘だ、本当は楽しんできて、なんて思ってないでしょ?ちゃんと、思ったこと言ってくれればいいのに。
目だって、本当は笑っていなかった。
芽流の、作り笑顔。こんな辛そうな表情なんて見たくないのに、なんでそんな顔するの?
目の奥は酷く冷たくて、何を考えているのかよくわからなかった。
そんな俺たちとは正反対に、アオはご機嫌そうだった。
優雅に、変な舞を踊りながら、心を見つめていた。

「今田心です、遅れて入部しました、よろしくお願いします!」
転校してきた時のように、心はゆっくりと頭を下げた。
その瞬間、部員全員がパチパチと手を鳴らし、コート全体が大きな拍手に包まれる。
「待って、あのサーブ凄かった人?」とか、「経験者?コツ聞きたい」とか。一年生の話し声が多い中、二年の声もちょこまかと混じっている。
いつもと同じように部長がパチンと手を叩き、仕切る。
「はい、じゃあ今日も筋トレから!今田さんはまだよく分からないだろうから、二年は教えてあげて!」
部長のそんな掛け声に俺は「はーい」と気だるげに返事をして、「心、こっち」と手招きする。
そこに何故かアオも乱入してきたから、三人で一緒に筋トレをすることになった。
「そう、それを三十回やって、それを三セット。これ結構キツイよなー」
「あぁー、これやばいよ?心。試しに十回くらいやってみなよ、ほんと腹筋割れるから」
いつの間にかちゃん付けをなくしていたアオ。へぇ、もうそんなに仲良くなったんだ、と感心する。
「…八、九…十!」
「うわあぁーっ、これキツいね!」
心のペースに合わせて腹筋をしても、やっぱりキツイものはキツかった。多分、この先これを「余裕だ」とか言える日は来ないんだろうなーと他人事のように考える。
「でしょ?これあと二回ねー」
アオが意地悪っぽくそう言うと、心が「えー、無理…」と音をあげた。
それが面白かったので、アオと目を見合わせて笑ってしまう。心がこんなに心を開いてくれたことの嬉しさと、「こんなに面白い子だったんだ」っていう発見。
いろいろと情報量が多すぎてとにかく面白かった。
三人で声を上げて笑った結果、笑い涙まで出てきてしまう。ああ、それだけ俺は二人に心を開いているんだな、と実感する。
「…はー、おもろっ!」
笑いの波が引いて、また筋トレをやる流れになる。相変わらず心は嫌そうな顔をしていた。
あ、楽しい。唐突にそう思った。
俺、本音で話せてる。ちゃんと「るい」を見せられている。
キツイ筋トレをこなしながら、そんなことを考える。
最近、芽流とは、なんというか、ピリピリすることが増えた。
それは、あの嫉妬事件以来。ずっと何か思いつめた顔をしているし、何より俺に異常なほどに執着している。
どうして、と言われても自分には分からない。ただ、教室でも廊下でも常に一緒にいたがったり、心を異常に警戒していた。
「流石に苦手意識しすぎだって、大丈夫だよ!」と軽く言ったこともある。けど、そしたら芽流に「私、あの子のこと嫌いだから。なんで分かってくれないの?」と静かにキレられた。
怖かった。最近、芽流が心との関係を一方的に悪くしていることが。
何より、俺に向けてくる静かな怒りが、俺たちの関係が終わってしまいそうで、一番、怖かった。
だから、俺は「なんで分かってくれないの?」と静かに失望された後、自然と本音を呑み込むようになってしまった。
芽流には、嫌われたくない。俺は芽流を、失いたくないから。
 
「…るい?大丈夫?」
心の声で、ハッと我に返る。そうだ、今は部活中だったっけ。
「うん、大丈夫。よし、サーブ練しよっか!」
「ねー心、私にサーブ教えて!あんな綺麗なサーブ見たことない!」
「え、俺が先に教えてもらおうと思ってたのに…!アオズルすぎ!」
そう思ったことを口にしながら、「本音、言えてるなぁ」という謎の感想を持ってしまう。
「へっ、早い者勝ちでーす、心行こー!」
「え、私サーブできないよ…!るいも一緒に行こう!」
心はそう言って小さく微笑み、俺に手を差し出す。
その手を掴むのはなんとなく気が引けたので、「うん、行く」と二つ返事で答える。
大きく伸びをして誤魔化し、その手には気づかないフリをした。