III


「いってきます」
軽い扉を開けて、外に出る。
いつも、一人で学校に向かう。この道は、希望で満ち溢れている。
今日は休日。現在時刻は三時十二分。メモ帳が切れてしまったから、買い出しに行くように頼まれた。
残された感情は、「怒り」だけ。喜怒哀楽の、怒。
怒りを覚えたことはなかった。真桜に裏切られた時は怒りなんか湧かなかったし、少しの悲しみを味わっただけだったから。
コンビニでメモ帳を三個買い、帰り道を歩く。まだ九月だからか、私に向けられた日差しがヒシヒシと痛く感じる。ロボットなのに、「暑い」と感じるのは何故なんだろう。後でお母さんに聞いてみよう。
そう考えながら道を歩いていると、いつの間にか家が目の前に立ちはだかっていた。
お母さんには会いたくないけど、結局は毎日のように顔を合わせなきゃいけない。
入る時は異様に重く感じる扉を開けようとした、その時だった。
「今田さん」
「…芽流ちゃん」
苗字を呼ばれて、振り返る。そこには、私服の芽流ちゃんが立っていた。
「家、来ない?」
殆ど話したこともない人に、家で遊ぶかと誘われ驚いてしまう。何故かは分からないけど、私は「ちょっと待ってて」と芽流ちゃんに言い、お母さんに許可を貰いに行く。
お母さんは、「いいわよ、いってらっしゃい」と言ってくれた。きっと、感情が出るかもしれないと判断したのだろう。
「…じゃあ、行こっか」
芽流ちゃんにそう言われ、背中を追ってついていく。どうして急に家に行こうなんて言い出したのだろう。AIの私には、やっぱりよく分からなかった。
考えているうちに、芽流ちゃんの家へとついてしまう。私は小さく「お邪魔します」と言ってから、足を踏み入れる。
「…綺麗な家だね」
「そう?ありがとう」
研究道具が散らばっているうちとは大違いの、整理されている綺麗な家。
芽流ちゃんに「そこ座って」と言われ、私は大きな椅子に腰掛ける。
どうやらお茶を用意してくれているみたいで、少し嬉しくなる。あまり話したことなくても、そこまでしてくれるんだ。
綺麗な椅子だなぁ、ていうか芽流ちゃん美人だな。背も高いし、凄くモテそう。最近るいと別れたって聞いたけど、いい子そうなのに。
「はい、紅茶。どうぞ」
「あ…ありがとう」
コトン、と目の前に紅茶が置かれる。
「わぁ…いい香り」
「ありがとう、心って呼んでいい?」
「いいよ…!私も芽流って呼んでいい?」
「いいよ、心」
名前呼びが少し嬉しくなって、ふっと微笑む。芽流ちゃんはあんまり笑うことがないのか、自分の分の紅茶をゆっくりと飲んでいた。
「…いただきます」
私も芽流を真似して、ゆっくりと紅茶を飲んでみる。ほんのり苺のような味がして、とても美味しい。
「これ、美味しい!ストロベリーティー?」
「そう、お母さんが好きなの。私もそれで好きになった」
「大人っぽいね、お母さんは今日仕事?」
芽流は一瞬言葉を止めて、それでも何事もなかったかのように続ける。
「…お母さんは浮気して離婚した。お父さんは出張でいないよ」
「…あ」
凄く、気の毒なことを聞いてしまった気がする。空気が凍る。
「…ごめん、そんなこと聞くつもりじゃ」
「ううん、いいの。慣れてるから」
芽流はそう言って、また紅茶を飲む。少し気まずくなって、私も紅茶をちまちまと飲む。
「…心はさ」
「うん」
紅茶を飲み終わり、両者机にカップを置く。真剣な顔をしているから、少し身構える。
「るいのこと、好き?」
「…え」

プログラムにるいの顔と、〝元カノ〟というワードが出てくる。そうだ、芽流はるいの元カノなんだ。
どうしよう、これで好きとか言ったらキレそうだよね。嘘ついた方がいいよね?未練ある感じなのかな、「好きじゃないよ」って言った方がいいよね。
「…好きじゃな、」
「正直に言っていいよ」
言葉を遮られる。芽流の顔を見ると、真剣な顔で私を見ていた。「本音で言って」と、言われているような感覚に陥る。
「…言うよ?」
「うん」
息を小さく吸い込んで、言葉を発する。

「…好きだよ」
お互い、無言になる。
芽流は下を向いた後、「そっか」と言って、椅子から立ち上がる。
「ちょっと待ってて、お菓子用意してくるから。お腹空いたでしょ?」
「あ…ありがとう」
芽流はニコッと笑った後、台所へと消えていく。気に障った訳ではなさそうだった。
ガサゴソと、用意してくれている音が聞こえる。私はひとつため息をつき、手をぎゅっと握る。
なんで、私を家に入れてくれたんだろう。もしかしたら、この話をするためだったのかもしれない。
とても、緊張した。毎日クラスで顔は見ているけど、話すのは初めてだったから。るいとの関係は複雑だけど、これを機に仲良くなるのも、いいのかもしれない。
そう考えていると、スタスタと足音が聞こえてくる。「これ、手作り。午前中に作った」と、クッキーを差し出してくれる。
「美味しそう…いいの?」
「うん、どんどん食べて。友達になった日の記念」
友達。そう言われると、嬉しくなる。心から喜べて、全身が高揚感に包まれる。
「…いただきます」
「どうぞ」
AIなのに、味覚を感じる。少し怖いと思っていたけれど、芽流の作ったクッキーを味わえるなら、味覚があって良かったと思える。
サク、と一口食べてみる。甘さが口全体に広がって、とても美味しい。
「芽流、お菓子作り上手なんだね!凄い!」
「ありがと、作った甲斐あるね」
ふふっと微笑み、そう言ってくれる芽流。いい友達になれそう、と心から思った。
「ねえ、心」
「何?」
クッキーを食べ進めながら、芽流に応じる。
「心がるいを好きなら、私は応援したいって思ってる」
「…え」
応援、してくれるのだろうか。未練はないのだろうか。
「元カノの身だし、もう好きじゃないから。だから、自由に恋愛していいよ」
「芽流…」
本当にいいの?芽流はそれで、本当にいいの?
後悔しない?私、るいのこと本当に好きなんだよ?より戻さなくていいの?
「より戻したいとか、思ってない。だから、二人が付き合っても何とも思わないし、むしろ祝福する」
「…本当?」
「うん、本当」
芽流は、ニコッと笑った。「自由に恋愛しな」と言った。
「…分かった、ありがとう」

そう言って、ひとつ、クッキーを食べる。嬉しいような、悲しいような、そんな感情になったのは初めてだった。