III
トン、トン、と、何かを刻む音がする。
何かっていうのは、人それぞれだから分からない。ペースが遅れている人は、まだ一つ目の食材を切っているはず。
芽流と私は、班の中での包丁担当。具材を切って、鍋に入れる。
本来ならもうそれが馴染めっているはずなんだけど、何故か私の班だけに包丁がなかったのである。
「先生、包丁ないんですけど」
担任にそう話しかける。いくら「そこにある」と言われた場所を探しても、包丁が出てくるなんてことはなかった。
「ああ、やっぱないか。じゃあ準備室から取ってきて」
そんな適当すぎることを言われたのである。
「あぁ〜、ダル…。地味に準備室遠いんだよね。家庭科室の隣にあればいいのに」
「絶対コキ使われてるよね。アオと私だけなんてさ。先生取りに行けばいいのに」
「分かるっ!というか、生徒二人に廊下で包丁持たせる方が問題じゃない?」
「普通にヤバいやつとかだったら、殺人とかありそう…」
「うわぁっ、怖…」
そう話しながら、二人で廊下を歩く。
「…失礼しま〜す」
ガラッ、と音を立てて、家庭科準備室へと入る。
念の為あいさつをしておいたけど、どうやら先生はいないみたいだ。
「ん〜、包丁どこだろ…」
慣れない手つきで包丁を探すも、そう簡単には見つからない。
「まな板の近くにあるんじゃない?ていうか、ここ入るの何気に初めてかも」
「確かに。初めてだね」
芽流のアドバイスに従いながら、まな板の近くを探していく。あの担任、包丁の場所くらい教えてくれればいいのに。
「…あ、あった」
見つけたのは、「包丁」と書かれている箱。中には一個、古びた包丁が入っている。
「…一個しかないね」
芽流が箱の中を覗き込んで、そう言う。家庭科準備室に、用意された包丁は一個しかないらしい。
「まあ、みんな使ってるしね。しょうがないか」
「交代して使おっか」
口ではそう言いつつも、やっぱり恨みはあの担任に向けられる。人数分くらい、ちゃんと用意しておけばいいのに。
扉を閉めて、家庭科室へと向かう。無駄に遠いの、本当に困る。
私の手には、包丁が握られている。勿論カバー付き。そこら辺は配慮されてるんだなぁ、と少し驚く。教師が生徒に二人だけで包丁を持たせるくらい、この学校のセキリュティはやばいんだなぁと思っていたんだけど。
心と調理実習、したかったな。廊下をボーッと歩きながら、そんなことを考える。
お見舞いに行きたいな。でも、家知らないし。来るまで待つしかないか。
「心…」
昔、少し聞いたことがある。
本当に好きな人は、ふとした瞬間に会いたくなるってこと。
声を聞きたくなる。顔を見たくなる。その声で、名前を呼んでほしくなる。
会いたい、って思っちゃうってこと。
「…アオ?」
「…あ」
無意識に、その人の名前を呼んでしまうってこと。
「今田さんが、どうかしたの?」
私の手の中には、包丁が握られている。
「…ただ、会いたいなーって思っただけ」
友達としてでもいいから、会いたいって思った。好きな人として見てくれなくても、「アオ」って、いつもみたいに呼んでほしい。
「…へえ、好きなの?」
「……はっ!?」
へえ、好きなの?
爆弾発言とは、こういうことを指すのだろう。
てか、芽流って心のことあんまりよく思ってない感じだったよね?なんで心に関しての話題平気なの?
え、てかなんで好きってバレたの?同性だし「へえ、まあ友達だから会いたくなるよねー」って感じになるでしょ、普通。
「いやっ、別に好きとかそういうんじゃ」
「好きなんでしょ?」
「…はい」
ほぼ無理矢理という形で白状させられる。あーあ、この会話誰かに聞かれてたらどうしよ。噂回っちゃうかな?うわぁ、それはダルいわ。
「なんで好きなの?」
まあしょうがないか、と半分諦めて、ゆっくりと二人で廊下を歩く。なんでそんなに探索してくるんだろう。芽流、そんなに恋バナとか好きじゃないのに。
「まあ、普通に可愛いし。優しいし、明るい…。タイプに近いってのもあるなぁ」
「へえ、アオって女の子好きなんだ、意外。てっきり男好きかと思ってた」
「今は多様性の時代だから」
軽く貶されたことは無視して、廊下を歩く。ちょっとイラッときたから、別にいいでしょ、同性愛ってのがあってもさ、と心の中で反論してみる。
「ふーん。でも私、あの子のこと嫌いなんだよね」
「知ってるよ」
そんなこと、言われなくても分かってる。今まで好きな人の悪口、遠回しに散々聞いてきたんだからさ。
芽流の嫌いなところなんて「ない」って思ってたけど、もしかしたら意外とあるのかもしれない。でも、親友だし、そこも認めないといけないのかな。
「なんであんな子に惚れちゃったかなぁ。絶対アオとか…るいの前では猫被ってると思うけど」
「そんなことないと思う。私たちにいつも対等に接してくれるから」
「それも偽物だよ。本物のあの子はめっちゃ性格悪いよ」
「なんでそう断言できるの?」
「だって、そうだから」
互いに黙り込む。
先生にコキ使われて、家庭科準備室から包丁を持ってくるだけ。
それだけのはずなのに、空気は段々、ピリピリと張り詰めたものに変わっていく。
「あの子、るいに色目使ってたんだよ?別れたけど、あの子さえいなければ別れなかった」
「それは…」
心の口から「るいが好き」と聞いてしまったから、反論しようとも言葉が出てこない。
「私とるいはお互いに好き同士だったのに。あいつが邪魔したから、私たち別れちゃったんだよ。本当最悪だよね。性格悪いからアオも関わんない方がいいよ?…あ、ていうかもう――」
「…誰を好きになるかは、その人の自由だと思うんだけど」
やっとの思いつきで、そう反論する。とにかく、芽流が心の悪口を言うのは耐えられなかった。
親友と好きな人は、あまり良い関係ではないということ。それがどうしようもなく苦しくて、辛い。
「……」
芽流はそれっきり、黙り込んでしまった。それに続くように、私も黙る。
これ以上、この話はしたくない。お互い口を開かずに、ゆっくりと廊下を歩く。
家庭科室まで、まだ距離がある。早くこの地獄の空間終わんないかなぁ、と苛立ってくる。
芽流と気まずくなったのは、多分あの初めて会った日以来だ。
あんなに仲良いのに、今の状況じゃまるで不仲だ。なんで、心のこと悪く言うんだろう。
色目を使っているっていうのはまあ悪いことかもしれないけど、人を好きになる感情は自由だと思うんだけど。
お互いにピリついたまま、廊下を歩く。
「私、あいつのこと殺したの」
手の中には、一つの包丁。
「…は?」
私、あいつのこと殺したの。
多分、理解するのに数十秒はかかったと思う。
あいつって、心のこと?
殺したって、心を?
「…いやいや、なんの冗談?」
作り笑いを浮かべてそう言っても、芽流は何も答えない。
包丁を握る力が強まる。
「…ねえ、なんか言ってよ」
芽流は何も、答えてくれない。
「…何、なんかのドッキリ?私そういうの騙されないよ?残念、ドッキリ大失敗〜!ってやつ?はは、手が込んでるなぁ。びっくりした」
芽流は口を開かない。ただ私だけを見つめている。
「あははっ、ねえ無視?流石に酷くない?もしかして無視ドッキリ?殺したーとかリアクション大きくするためでしょ!私全部分かってるから!」
なんか言ってよ。
「はー、ほんと面白いね。ねえ、早くカレー作ろー」
「本当だよ」
凛とした声が、廊下に響く。
「…はは」
乾いた笑みを溢す。
「嘘だよね、本当って言ったらヤバいもんね?芽流捕まっちゃうよ」
「だから、本当だってば」
なんの動揺もない、いつもの落ち着いた声。
私を呼んでくれるその声が、今だけどうしようもなく憎らしく思えた。
「私、あいつのこと殺したの。最近学校に来てないのもそのせい」
「…風邪だよ、きっと」
信じられない。信じたくない。
信じられるわけない。
「信じられない?」
「…当たり前でしょ、なんかの冗談に決まってる」
「ま、最初は信じらんないよね。私、あいつのこと包丁で刺して殺したの」
嘘だよね、芽流はそんなことしないよね。
いくら心のことが嫌いでも、そんな犯罪みたいなことしないよね?
「夏休み明けぐらい?丁度先週あたりだと思うよ。確か…お腹とか、頭とか、まあ色々。刺し殺した」
いつもと変わらない声で、そう告げられた。
頭の中で鮮明に映像化されてしまう。想像がついてしまう。
芽流が心を刺す瞬間が。殺してしまう瞬間が。嘘だと思いたくても、思えなくなってくる。
「あー、やっと殺せたーみたいな感じで。嬉しかったよ。あんな奴、この世界にいるだけで吐き気がするから。遺体としては残ってるけど、まあ全身切り裂いたから大丈夫」
何が?
なんの話?
殺人?殺害?人殺し?
殺せた?嬉しい?吐き気?遺体?切り裂いた?
私の親友は、人殺し?
嫌だ。
そんな事実、認めたくない。認められるわけない。嘘だって信じたい。
芽流が人殺しなんて、何かの間違いだ。
「殺したの?」
最終確認、っていうやつだろうか。いつもテスト終わりに担任が言うやつ。
今回は、重みが違う気がする。
声が震えた。声を出すことすら、躊躇うくらいだった。
知りたくない。芽流は人殺しなんかじゃない。心はまだ生きているはず。そう信じたい。
〝殺したの?〟なんて言葉、初めて言った。冗談でも言ったことがなかった。
芽流が「殺したよ」なんて、言うはずない。好きな人を殺したなんて、ありえない。
心はまだ生きている。風邪で休んだだけ。殺されてなんかない。
「殺したよ」
凛としたいつもの声が、廊下に響く。
「あいつは死んだよ、私が殺した」
心は死んだ。
好きな人を、芽流が殺した。
「…は?ふざけないでよ…」
こんな事、ありえるわけない。芽流は、人殺しなんかじゃない。
心は殺されてなんかない。絶対、生きてる。
頭では、ちゃんと分かってるのに。
「なんで?なんで心のことをそんなに恨むの?なんで殺すの?なんで刺したの?なんで私の好きな人を殺したの?」
なんで、なんで、なんで。
包丁を握る力が強くなる。
〝あいつのこと、包丁で刺して殺したの〟
芽流は、包丁で、心の全身を――
考えただけで、背筋が凍る。
頭では、分かってる。
ちゃんと、何かの間違いだってこと。なんかのドッキリとか、そういうやつ。
ちゃんと、分かってるのに。
「ふざけんなよ!!!たかが嫉妬だけで、人を殺すなよ!!!バカじゃねえの!?」
ただただ、怒りが湧いてくる。
芽流は黙って、私を見つめる。
「るいに色目使ったとか…そんなのどうでもいいんだよ!!心がいつるいに手ェ出したんだよ!!なんもしてねぇだろ!?」
芽流は何も答えない。
いつもと変わらない表情で、ただ私を見つめる。
親友は、人殺し。
言葉がこれ以上、出てこない。
心がまだ生きてるっていう希望を、捨てきれていないから。
「…ふざけんなっ…」
ふざけるなよ。
芽流。
親友は、アンタは、お前は、人殺し?
怒りが、悲しみが、交互に混じる。
分からなくなる。
「人殺し」
睨んだ。
言った。
目には涙が溜まっていた。
拭おうとはしない。これじゃあ心が死んだみたいになるから。
泣いてない。悲しいことはなにも起こっていない。
でも、芽流は人殺し。
「アオ」
私の名前を呼ばないで。
「心は、死んだよ?」
芽流が、笑った。
初めて、心の名前を呼んだ。
心が死んだと言った。
芽流は、笑った。
包丁のカバーを、外した。
刺した。
思いっ切り、殺意を込めて。
よくも心を殺したな、許さないって。
真紅の血が、廊下に飛び舞う。
私の手に、顔に、腕に、足元に。芽流の生暖かい血が、付着する。
服も、真っ赤。
芽流が、お腹を抑える。
芽流は、笑った。
「ひと、ごろし」
親友は、人殺し。
私の大切な人を奪った、最低な人殺し。
その親友を殺した私は、最低な人殺し。
トン、トン、と、何かを刻む音がする。
何かっていうのは、人それぞれだから分からない。ペースが遅れている人は、まだ一つ目の食材を切っているはず。
芽流と私は、班の中での包丁担当。具材を切って、鍋に入れる。
本来ならもうそれが馴染めっているはずなんだけど、何故か私の班だけに包丁がなかったのである。
「先生、包丁ないんですけど」
担任にそう話しかける。いくら「そこにある」と言われた場所を探しても、包丁が出てくるなんてことはなかった。
「ああ、やっぱないか。じゃあ準備室から取ってきて」
そんな適当すぎることを言われたのである。
「あぁ〜、ダル…。地味に準備室遠いんだよね。家庭科室の隣にあればいいのに」
「絶対コキ使われてるよね。アオと私だけなんてさ。先生取りに行けばいいのに」
「分かるっ!というか、生徒二人に廊下で包丁持たせる方が問題じゃない?」
「普通にヤバいやつとかだったら、殺人とかありそう…」
「うわぁっ、怖…」
そう話しながら、二人で廊下を歩く。
「…失礼しま〜す」
ガラッ、と音を立てて、家庭科準備室へと入る。
念の為あいさつをしておいたけど、どうやら先生はいないみたいだ。
「ん〜、包丁どこだろ…」
慣れない手つきで包丁を探すも、そう簡単には見つからない。
「まな板の近くにあるんじゃない?ていうか、ここ入るの何気に初めてかも」
「確かに。初めてだね」
芽流のアドバイスに従いながら、まな板の近くを探していく。あの担任、包丁の場所くらい教えてくれればいいのに。
「…あ、あった」
見つけたのは、「包丁」と書かれている箱。中には一個、古びた包丁が入っている。
「…一個しかないね」
芽流が箱の中を覗き込んで、そう言う。家庭科準備室に、用意された包丁は一個しかないらしい。
「まあ、みんな使ってるしね。しょうがないか」
「交代して使おっか」
口ではそう言いつつも、やっぱり恨みはあの担任に向けられる。人数分くらい、ちゃんと用意しておけばいいのに。
扉を閉めて、家庭科室へと向かう。無駄に遠いの、本当に困る。
私の手には、包丁が握られている。勿論カバー付き。そこら辺は配慮されてるんだなぁ、と少し驚く。教師が生徒に二人だけで包丁を持たせるくらい、この学校のセキリュティはやばいんだなぁと思っていたんだけど。
心と調理実習、したかったな。廊下をボーッと歩きながら、そんなことを考える。
お見舞いに行きたいな。でも、家知らないし。来るまで待つしかないか。
「心…」
昔、少し聞いたことがある。
本当に好きな人は、ふとした瞬間に会いたくなるってこと。
声を聞きたくなる。顔を見たくなる。その声で、名前を呼んでほしくなる。
会いたい、って思っちゃうってこと。
「…アオ?」
「…あ」
無意識に、その人の名前を呼んでしまうってこと。
「今田さんが、どうかしたの?」
私の手の中には、包丁が握られている。
「…ただ、会いたいなーって思っただけ」
友達としてでもいいから、会いたいって思った。好きな人として見てくれなくても、「アオ」って、いつもみたいに呼んでほしい。
「…へえ、好きなの?」
「……はっ!?」
へえ、好きなの?
爆弾発言とは、こういうことを指すのだろう。
てか、芽流って心のことあんまりよく思ってない感じだったよね?なんで心に関しての話題平気なの?
え、てかなんで好きってバレたの?同性だし「へえ、まあ友達だから会いたくなるよねー」って感じになるでしょ、普通。
「いやっ、別に好きとかそういうんじゃ」
「好きなんでしょ?」
「…はい」
ほぼ無理矢理という形で白状させられる。あーあ、この会話誰かに聞かれてたらどうしよ。噂回っちゃうかな?うわぁ、それはダルいわ。
「なんで好きなの?」
まあしょうがないか、と半分諦めて、ゆっくりと二人で廊下を歩く。なんでそんなに探索してくるんだろう。芽流、そんなに恋バナとか好きじゃないのに。
「まあ、普通に可愛いし。優しいし、明るい…。タイプに近いってのもあるなぁ」
「へえ、アオって女の子好きなんだ、意外。てっきり男好きかと思ってた」
「今は多様性の時代だから」
軽く貶されたことは無視して、廊下を歩く。ちょっとイラッときたから、別にいいでしょ、同性愛ってのがあってもさ、と心の中で反論してみる。
「ふーん。でも私、あの子のこと嫌いなんだよね」
「知ってるよ」
そんなこと、言われなくても分かってる。今まで好きな人の悪口、遠回しに散々聞いてきたんだからさ。
芽流の嫌いなところなんて「ない」って思ってたけど、もしかしたら意外とあるのかもしれない。でも、親友だし、そこも認めないといけないのかな。
「なんであんな子に惚れちゃったかなぁ。絶対アオとか…るいの前では猫被ってると思うけど」
「そんなことないと思う。私たちにいつも対等に接してくれるから」
「それも偽物だよ。本物のあの子はめっちゃ性格悪いよ」
「なんでそう断言できるの?」
「だって、そうだから」
互いに黙り込む。
先生にコキ使われて、家庭科準備室から包丁を持ってくるだけ。
それだけのはずなのに、空気は段々、ピリピリと張り詰めたものに変わっていく。
「あの子、るいに色目使ってたんだよ?別れたけど、あの子さえいなければ別れなかった」
「それは…」
心の口から「るいが好き」と聞いてしまったから、反論しようとも言葉が出てこない。
「私とるいはお互いに好き同士だったのに。あいつが邪魔したから、私たち別れちゃったんだよ。本当最悪だよね。性格悪いからアオも関わんない方がいいよ?…あ、ていうかもう――」
「…誰を好きになるかは、その人の自由だと思うんだけど」
やっとの思いつきで、そう反論する。とにかく、芽流が心の悪口を言うのは耐えられなかった。
親友と好きな人は、あまり良い関係ではないということ。それがどうしようもなく苦しくて、辛い。
「……」
芽流はそれっきり、黙り込んでしまった。それに続くように、私も黙る。
これ以上、この話はしたくない。お互い口を開かずに、ゆっくりと廊下を歩く。
家庭科室まで、まだ距離がある。早くこの地獄の空間終わんないかなぁ、と苛立ってくる。
芽流と気まずくなったのは、多分あの初めて会った日以来だ。
あんなに仲良いのに、今の状況じゃまるで不仲だ。なんで、心のこと悪く言うんだろう。
色目を使っているっていうのはまあ悪いことかもしれないけど、人を好きになる感情は自由だと思うんだけど。
お互いにピリついたまま、廊下を歩く。
「私、あいつのこと殺したの」
手の中には、一つの包丁。
「…は?」
私、あいつのこと殺したの。
多分、理解するのに数十秒はかかったと思う。
あいつって、心のこと?
殺したって、心を?
「…いやいや、なんの冗談?」
作り笑いを浮かべてそう言っても、芽流は何も答えない。
包丁を握る力が強まる。
「…ねえ、なんか言ってよ」
芽流は何も、答えてくれない。
「…何、なんかのドッキリ?私そういうの騙されないよ?残念、ドッキリ大失敗〜!ってやつ?はは、手が込んでるなぁ。びっくりした」
芽流は口を開かない。ただ私だけを見つめている。
「あははっ、ねえ無視?流石に酷くない?もしかして無視ドッキリ?殺したーとかリアクション大きくするためでしょ!私全部分かってるから!」
なんか言ってよ。
「はー、ほんと面白いね。ねえ、早くカレー作ろー」
「本当だよ」
凛とした声が、廊下に響く。
「…はは」
乾いた笑みを溢す。
「嘘だよね、本当って言ったらヤバいもんね?芽流捕まっちゃうよ」
「だから、本当だってば」
なんの動揺もない、いつもの落ち着いた声。
私を呼んでくれるその声が、今だけどうしようもなく憎らしく思えた。
「私、あいつのこと殺したの。最近学校に来てないのもそのせい」
「…風邪だよ、きっと」
信じられない。信じたくない。
信じられるわけない。
「信じられない?」
「…当たり前でしょ、なんかの冗談に決まってる」
「ま、最初は信じらんないよね。私、あいつのこと包丁で刺して殺したの」
嘘だよね、芽流はそんなことしないよね。
いくら心のことが嫌いでも、そんな犯罪みたいなことしないよね?
「夏休み明けぐらい?丁度先週あたりだと思うよ。確か…お腹とか、頭とか、まあ色々。刺し殺した」
いつもと変わらない声で、そう告げられた。
頭の中で鮮明に映像化されてしまう。想像がついてしまう。
芽流が心を刺す瞬間が。殺してしまう瞬間が。嘘だと思いたくても、思えなくなってくる。
「あー、やっと殺せたーみたいな感じで。嬉しかったよ。あんな奴、この世界にいるだけで吐き気がするから。遺体としては残ってるけど、まあ全身切り裂いたから大丈夫」
何が?
なんの話?
殺人?殺害?人殺し?
殺せた?嬉しい?吐き気?遺体?切り裂いた?
私の親友は、人殺し?
嫌だ。
そんな事実、認めたくない。認められるわけない。嘘だって信じたい。
芽流が人殺しなんて、何かの間違いだ。
「殺したの?」
最終確認、っていうやつだろうか。いつもテスト終わりに担任が言うやつ。
今回は、重みが違う気がする。
声が震えた。声を出すことすら、躊躇うくらいだった。
知りたくない。芽流は人殺しなんかじゃない。心はまだ生きているはず。そう信じたい。
〝殺したの?〟なんて言葉、初めて言った。冗談でも言ったことがなかった。
芽流が「殺したよ」なんて、言うはずない。好きな人を殺したなんて、ありえない。
心はまだ生きている。風邪で休んだだけ。殺されてなんかない。
「殺したよ」
凛としたいつもの声が、廊下に響く。
「あいつは死んだよ、私が殺した」
心は死んだ。
好きな人を、芽流が殺した。
「…は?ふざけないでよ…」
こんな事、ありえるわけない。芽流は、人殺しなんかじゃない。
心は殺されてなんかない。絶対、生きてる。
頭では、ちゃんと分かってるのに。
「なんで?なんで心のことをそんなに恨むの?なんで殺すの?なんで刺したの?なんで私の好きな人を殺したの?」
なんで、なんで、なんで。
包丁を握る力が強くなる。
〝あいつのこと、包丁で刺して殺したの〟
芽流は、包丁で、心の全身を――
考えただけで、背筋が凍る。
頭では、分かってる。
ちゃんと、何かの間違いだってこと。なんかのドッキリとか、そういうやつ。
ちゃんと、分かってるのに。
「ふざけんなよ!!!たかが嫉妬だけで、人を殺すなよ!!!バカじゃねえの!?」
ただただ、怒りが湧いてくる。
芽流は黙って、私を見つめる。
「るいに色目使ったとか…そんなのどうでもいいんだよ!!心がいつるいに手ェ出したんだよ!!なんもしてねぇだろ!?」
芽流は何も答えない。
いつもと変わらない表情で、ただ私を見つめる。
親友は、人殺し。
言葉がこれ以上、出てこない。
心がまだ生きてるっていう希望を、捨てきれていないから。
「…ふざけんなっ…」
ふざけるなよ。
芽流。
親友は、アンタは、お前は、人殺し?
怒りが、悲しみが、交互に混じる。
分からなくなる。
「人殺し」
睨んだ。
言った。
目には涙が溜まっていた。
拭おうとはしない。これじゃあ心が死んだみたいになるから。
泣いてない。悲しいことはなにも起こっていない。
でも、芽流は人殺し。
「アオ」
私の名前を呼ばないで。
「心は、死んだよ?」
芽流が、笑った。
初めて、心の名前を呼んだ。
心が死んだと言った。
芽流は、笑った。
包丁のカバーを、外した。
刺した。
思いっ切り、殺意を込めて。
よくも心を殺したな、許さないって。
真紅の血が、廊下に飛び舞う。
私の手に、顔に、腕に、足元に。芽流の生暖かい血が、付着する。
服も、真っ赤。
芽流が、お腹を抑える。
芽流は、笑った。
「ひと、ごろし」
親友は、人殺し。
私の大切な人を奪った、最低な人殺し。
その親友を殺した私は、最低な人殺し。



