茶屋の小さな個室に、湯気の立つ湯呑がふたつ。
夜の京の町を包む雨音が、静かな帳のように広がっていた。
「いやぁ、新選組の中でも沖田先生とこうして二人で話せるとは光栄です」
目の前の男は、にこやかに笑いながら茶を啜った。
羽織の下に隠された腰の太刀が、その身の正体を語っている。
「そう? 僕はお喋りするの、好きだからねぇ」
沖田総司は、相手の言葉にふわりと微笑みながら、湯呑を手に取った。
湯の表面には、仄かに香る梅のような甘い香り。
「……んんっ」
ひと口、ふた口と飲み、沖田の動きがふと止まる。
次の瞬間──彼は激しくむせた。
「……っ、ごほっ、ごほっ!」
湯呑を取り落としそうになりながら、肩を揺らして咳き込む。
顔を覆い、喉を詰まらせたように苦しげに息を吸う。
対面の男の目が、わずかに細められた。
──やった。
心の中で男は確信する。
あの茶には、幕府の密偵すら即死させると噂される「無形散」が仕込まれていた。
無色無臭で、舌に感じる違和感もない。だが、体内に入った途端に血を凝固させ、じわじわと死へと誘う猛毒だ。
武士といえど、毒には勝てぬ。
いや、むしろ強き者ほど、こうした手段で仕留めるのが最適なのだ。
「ふふ、いやはや、これは失礼しました。お茶が合いませんでしたかな?」
男は静かに問いかける。
内心では、すでに勝利を確信していた。
しかし──
「……っ、あぁ、びっくりした」
沖田は数回咳をした後、まるで何事もなかったかのように顔を上げた。
「喉に変な感じが残ると思ったら……これ、すごい毒だねぇ」
にっこりと微笑む。
男の背筋に、冷たいものが走った。
「……な……っ!?」
「いや、ちょっと驚いたよ。久しぶりにこんなに強い毒を飲んだから、喉がぴりぴりする。でも──うん、大丈夫」
沖田は軽く喉をさすり、ぽんぽんと胸を叩く。
その仕草は、まるで熱い茶をうっかり飲んでしまったかのように軽やかだった。
「……ば、馬鹿な……!」
男の顔が青ざめる。
無形散は即効性がある。飲んだ直後に血が固まり、呼吸が困難になるはずだった。
それなのに、沖田はむせた後、平然とした顔をしている。
「うん、美味しかったよ。ありがと」
沖田は微笑んだまま、懐から白い紙を取り出し、口元をぬぐう。
──それは、まるで食後の礼儀のようだった。
そして、次の瞬間。
「さて──そろそろ、お仕事の話をしようか」
その笑顔のまま、沖田は妖刀・菊一文字則宗の柄に手をかけた。
男は反射的に立ち上がろうとする。
しかし、足がすくんで動かない。
目の前の剣士は、確かに今、毒を盛られた。
だが、その毒は何の意味もなさず、むしろ彼は「少し喉がぴりぴりする」と、まるで香辛料の効いた料理でも食べたような顔をしている。
「──逃げてもいいよ」
沖田は、にこにこと笑いながら言った。
「でも、次の瞬間には……きっと君、斬られてるよ」
雨音が静かに響く。
血の気の引いた男の顔が、歪んでいく。
──そう、この男はまだ知らなかった。
沖田総司の異質さを。
「毒が効かない」などという常識外れの存在が、この世にいるということを。
そして、知ってしまった者に、逃げ道はない。
「じゃあ、始めようか」
微笑みと共に、白刃が月光を反射した。
──京の闇に、一筋の閃光が走る。
それは、異能を秘めた新選組の戦いの幕開けだった。


