保健室の曜子先生 笑う猫とオバケの鍵

 鏡の中に飛び込むと、そこは白い部屋。
 家具も何もない、目が痛くなるほど真っ白な壁に、いくつもの鏡がズラリと並んでいる。
 まるで、その鏡のひとつひとつが、それぞれ違う場所に繋がっているみたい。
 その部屋の片隅に、鬼丸くん、渡辺くん、安倍くんが気絶していた。
「みんな!」
 アタシが駆け寄ろうとすると、目の前に突然、黒猫が現れる。
「――チェシャ猫!」
「キヒヒ。ようこそ、四次元の世界へ!」
『ふしぎの国のアリス』の中では、チェシャ猫は透明になれる力を持っているらしい。
 それで、透明になっていた猫が急に現れたように見えたのだろう。
「チェシャ猫! 三人を返して!」
「ああ、いいとも。『オバケの鍵』を渡してくれたらな」
 そう言ってから、「ああ、今はもう『厄災の鍵』と言ったほうがわかりやすいか」と独り言をつぶやいた。
 つまりは、鬼丸くんを筆頭とした三人は、鍵と交換するための人質なのだ。
「チェシャ猫。あなたはすでに学校に侵入していたのね」
 曜子先生は眉間にシワを寄せながら、静かな口調で話した。
「あの大鏡を使って、他の鏡から王馬小学校への侵入口はできていた……」
 つまり、曜子先生が猫の侵入経路になりそうな場所に住んでいるオバケたちに警戒してもらうように頼んでいたのはほとんど意味がなかったことになる。
「キヒヒヒ! 猫に出し抜かれたマヌケなキツネめ!」
 チェシャ猫はあのニマニマした笑い方で、曜子先生をあざ笑った。
 ――コイツ、先生をバカにしてムカつく! 絶対許せない!
 アタシは怒り心頭だ。
「さあ、『厄災の鍵』を渡せ」
「そんな『鍵』を渡したら、街はめちゃくちゃになるわ」
「それが俺の目的だからなァ! ほら、かわいい生徒たちがどうなってもいいのか?」
 チェシャ猫はするどい爪で鬼丸くんの頬をちょいちょいと、傷つかない程度に触れている。
 あの爪で引っかかれたらひとたまりもないことを、アタシは知っていた。
 この性格の悪い猫のことだから、のどをかき切って、ためらいもなく大ケガをさせるに違いない。
「……わかった。渡すから、その子たちに手を出さないで」
「キヒヒ、物わかりがよくて助かるよ」
 曜子先生は白衣のポケットから小さな鍵を取り出して、チェシャ猫の方に放り投げた。
 猫はジャンプしてキャッチすると、そのまま鏡の向こう、王馬小学校の方へ飛び出したのだ。
「みんな、起きて! すぐにここから脱出するわよ!」
 曜子先生が揺さぶる。
 安倍くんと渡辺くんは、すぐにパッと飛び起きた。
「俺たち、気絶する前に鏡の中に引きずり込まれたよね? つまり、ここが四次元の世界? いやあ、これは興奮しちゃうなあ」
「清明、今はそんな場合じゃないだろ」
 鬼丸くんは一向に起きない。
 寝起きが悪いのかもしれなかった。
 仕方なく曜子先生が鬼丸くんをせおって、全員で鏡を飛び出したのだ。
「チェシャ猫はどこに行ったんでしょう?」
「おそらく、あいつはもう『厄災』の場所を突き止めているはず。百鬼夜行をするなら、強い妖怪を従えたほうが威厳が出るから、『厄災』と呼ばれている妖怪を解放したがっているんだわ」
「百鬼夜行……なるほどな」
 渡辺くんはなにか思い当たることがあるようだった。
「僕もおかしいと思ってたんです、あのプールにいた女の霊。僕が毎年見かけていたのは、僕らと同じくらいの年頃の男の子だった」
 ――髪の長い、大人の女の幽霊。
 曜子先生とも話していた、なぞの存在だ。
「でも『笑う猫』――チェシャ猫でしたっけ、あいつが女の幽霊を手下として操り、プールを横取りさせてたのなら、説明はつく」
「おそらく、学校に住んでいる霊の居場所を奪って、少しずつ侵入できそうなところを探していたんだろうねえ」
 安倍くんも同じ意見だとうなずいた。
「でも、あの踊り場の大鏡が四次元の世界、そして他の鏡とつながっていたことに気づき、作戦変更ってところかな?」
 そうして、まんまと学校への侵入を許してしまったというわけ。
「とにかく、早くチェシャ猫のところへ行きましょう!」
「いえ、そんなに焦らなくても大丈夫。いったん、鬼丸くんを保健室に寝かせてから向かいましょう」
 曜子先生は、街の危機だというのに、なぜかのんびりしている。
 保健室に戻り、鬼丸くんの体をベッドに横たえて、布団をかぶせた。
「八雲先生、ここらでハッキリさせておきましょう」
 そう言ったのは安倍くん。
「先生は、人間じゃありませんよね?」
「ここまで妖怪に詳しい人間はあまり見かけないからな」
 安倍くんと渡辺くんの問いかけに、曜子先生は少しうつむく。
「……さすがに、渡辺綱の子孫と、安倍晴明の子孫はだましとおせないわね」
「あべのせーめー?」
 アタシは渡辺くんのご先祖様のことは以前聞いたけれど、安倍くんのご先祖様はよく知らない。
「春風さん、もしかして、この手の話にはあまり詳しくないのかな?」
「うん、ごめん。オカルトはよくわからない……」
「オカルトか……」
 安倍くんは苦笑いをしていた。
「じゃあ、春風さんは『陰陽師』はわかる?」
「あ、映画のタイトルは聞いたことある。内容は知らないけど」
「その『陰陽師』の代表的で一番有名な存在が安倍晴明ってわけ」
「え! 安倍くんのご先祖様ってすごい人なんだ!」
 アタシが驚いているのを見て、安倍くんは満足したようにうなずく。
「それでまあ、綱吉とは妖怪退治仲間っていうか」
「さすがにご先祖様にはかなわないけどな」
 そんな二人を、まぶしそうな目で見ていたのが曜子先生であった。
「渡辺綱様に、安倍晴明様……か……」
「先生はご存知のようですね」
「安倍くんも、私の正体には気付いているんでしょう?」
「ええ、まあ。キツネの匂いはなんとなく感じていました」
 そういえば、曜子先生は千年生きているキツネのオバケ。
 安倍晴明や渡辺綱と知り合っていてもおかしくはない。
「さて……そろそろ『笑う猫』のところに向かいましょうか」
 先生の言葉に、全員がうなずいた。

〈続く〉