すべてはあの花のために➓


 ある暑い日。この日はとびきり暑かった。
 あおいが3つになる前に、わたしは彼に書類を突き出した。それはもちろん離婚届。わたしの分はもう書いていた。


「もう限界だわ。あなたもでしょう?」

「……ああ。そうだな」


 彼も、その書類をすんなり受け取った。あとは自分がやっておくと言っていたから、任せることにした。


「あ。そうそう、あおいなんだけど」

「俺は面倒見ないからな」


 え……?


「ちょ。わたしだって見ないわよ! あなたが見なさいよ!」

「俺は絶対に引き取らない」


 ど、……どうして。だって、わたしがあおいを引き取ったところで……。あおいも。望月の犠牲にしろっていうの?
 わたしは絶対に、あおいを引き取ることなんてできなかった。それはもう、……絶対に。


「……捨てるわ」


 だから、これは賭けだった。こう言ったら、きっと優しい彼ならあおいのことを引き取ってくれると思ったから。


「あなたにそっくりのあの子見てるだけでイライラするの。わたしは絶対に引き取らない。わたしが引き取るぐらいなら、あの子は捨てるわ」


 だから。……お願い。あおいは引き取るって言って。
 わたしの。愛したあなたとの愛を。


「……はあ。わかった」


 よかったと。これでもう、あおいもきっと幸せになれると思った。


「捨てよう」

「……え」


 聞き間違いだと思った。今、彼はなんて言った……?


「俺だってごめんだ。お前そっくりのあおいを見てるだけで吐き気がする」


 聞き間違いなんかじゃなかった。彼は、本気であおいを捨てる気だ。


「……そう。わかったわ。それじゃあ捨てましょう」


 もう、半分意地になってたんだと思う。きっと、ギリギリになったら彼もやっぱり引き取ると。そう言ってくれると。……そう、思っていたんだ。


「捨てる場所は、お前に任せる」

「――!! ……っ、わかったわよ」


 彼は本気なんだとわかっていても、わたしも今更引くに引けない。……こんなはずじゃ。なかったのに。



「あおい、今日はみんなでお出かけしよう」

「……おで。かけ。……?」


 暑い日だった。その日も。
 でも、この日と決めたのは、わたしの方だ。


「みんなで海に行きましょう」

「……。う、み……?」


 場所も。時間も。日にちも。やり方も。何かもを決めたのは、わたしだ。
 それから彼の運転で、あの海へと向かった。わたしは、最後の最後まで、彼なら引き取ると言ってくれると。……そう信じてた。

 前に持って来ておいた小さな頑丈な舟に、小さな小さなあおいをちょこんと乗せる。


「あおい? 海はとっても綺麗な場所なのよ?」

「うん! しょうだね! おかあしゃん!!」


 久し振りに一緒にこんなところまで来たんだ。すごく嬉しそうに笑いながら、あおいがそう言った。


「海の向こうには、あおいが上手に話せる外国語を話す人がいっぱいいるのよ?」

「しょうなんだあ! いってみたい!!」


 そう言いながら、彼と二人で、あおいの乗った舟を押す。膝まで一緒に、海に浸かった。まだ、朝は早い時間。まわりには誰もいない。

 この日にしたのは。この時間にしたのは。……っ、たくさんたくさん調べた。船が、通る時間を。天候を。


「あおい? わたしたちは行けないけど、思う存分、海の旅を楽しんでくるといいわ?」

「……? おかあ、しゃん……?」


 ここまで来て。もう……彼も本気なんだとわかってしまった。
 だから。……どうかと。船で通った人が、かわいいかわいいあおいを拾って、大切に育ててくれることを。心から祈った。

 もしあおいが誰かに拾われたとしても、きっとわたしへは辿り着けないだろう。
 望月だけれど、どこの望月かなんて言ってないんだもの。京都……は、仕方がないかもしれないけど、でもきっと来ないわ。

 そうするように、今までずっと。キツく当たってきたんだから。


「あおい? いってらっしゃい」

「お、かあ、しゃん……?」


 彼と一緒に、あおいが乗った小さな舟を足で押した。今日は波が荒い方だから、あおいが乗った舟なんて、あっという間に波に攫われて沖へ沖へと進んでいった。