「ヒエンさんは今日、こちらに仕事場から直接?」

「いや、出先からだ」

「……では、まだ今日は()に会っていないと」


 彼から返ってくるのは沈黙だけ。
 だからすぐに、運転しながら一切表情を変えない彼の横顔に、にっこりと笑顔を向ける。


「間違えました。ご自宅で(、、、、)、ですね。それでしたら頷いてくれます?」


 ちらりと尻目に葵の笑顔を見た彼は、ため息をついてお手上げをした。


「悪いなお嬢ちゃん。回りくどいのが嫌いなんでな。さっさと話してくれねえか」


 酷く疲れている様子で。


「今日お仕事は……」

「……今日は休みをもらった」


 体力的にではなく、精神的に。


「ヒエンさん。早朝は病院へいらっしゃいましたよね」

「夕べ飲んでる時に病院から連絡もらってな。まさかお嬢ちゃんたちも、あの病院にいるなんて思わなかったが」


 何を尋ねられるかわかっていたのだろう。特に驚いた様子もなく彼はそう答えたが、葵は「本当ですか?」と首を傾げる。それに彼は怪訝な表情を浮かべた。


「どういうことだ」

「オウリくんに会いませんでしたか?」

「いや、会ってないと思うが」

「昨日はお泊まりになったんですよね? わたしたちも実は泊まったんです」

「……まさか」

「はい。もしかしたら、こっそり様子を見に行っていたのではないかと。夜中、姿が見当たらなかったので」


 彼の瞳が、不安と期待に揺れる。


「ヒエンさん。何があったのか、教えてはいただけないでしょうか」


 けれど彼は、苦しそうに顔を歪めるだけ。


「あの女性のこと、そしてあなたのことも心配しているはずです。大切なんですよ、オウリくんにとっても。それはあなたもわかっているのでしょう?」

「……ああ。ちゃんと、わかってるよ」


 そして、諦めるように意識をフロントへと戻す。


「お嬢ちゃんは、どこまで知ってる」

「……あなたが彼を引き取り、一緒に暮らしていること。彼を二宮道場へと連れて行ったこと。それから、あなたが『氷川さん』だということ」


 答えると彼は「ハハッ」と乾いた笑いを上げた。


「そこまで知ってんなら、俺のことは話せるな」

「ヒエンさん、わたしが知りたいのはオウリくんのことで」


 でも彼は、その言葉に頷きもしなかった。


「お嬢ちゃんの言うとおり、俺はあいつを引き取った。兄貴の息子だから甥っ子に当たる。……そうだな。あと、『ヒエン』が本名じゃないことぐらいは知ってんのか」

「知りはしませんが、ぴんとこなかったので。仕事場で使っている名前なのかと」

「あながち間違いじゃねえ。俺の名前は、氷川 炎樹(ひかわ えんじゅ)。あいつの父親の弟だ」


 これは理事長から聞いていた。だから返事はしなかった。
 名前までは聞いてはいなかったが、あくまで知りたいのは彼のことだから。