「驚かせてしまってすみません。それでも私は、あなたが変わると言うまで、ここから出すつもりはありせん」
彼は、葵の両側に手を突いて閉じ込めてくる。
一瞬驚いて固まった葵は、震える手に活を入れながら、腕を突っ張って胸を押し返す。急に怖くなって、今すぐここから立ち去ってしまいたかった。
「ご、ごめんなさい。わたしには、あなたを幸せにすることはできません」
「私があなたを幸せにしてみせます! あなたが幸せなら……っ、私も。幸せだから……っ」
葵の肩に頭が寄せられる。その拍子にシルクハットがズレて落ちた。
怖くて震えていた。葵もだけれど、それ以上に彼の方が。
「……ありがとうございます。本当に、そう思っていただけるだけで、わたしは幸せです」
「お願いだ。考え、直して……」
「わたしの考えは変わらないです。もう絶対に。ずっと前から、決めていたことなので……」
葵の顔の横に突いている手が、グッと握られる。ギシギシと、痕になるのも構わずに。血が滲んでしまいそうなほどに。
「(知らないところで好いてもらえて。……わたしは幸せ者だ)」
葵は小さな声を漏らす。やっぱり、彼には話してしまいたい。
「考えは変わりません。けれど、わたしの気持ちは変わりました。あなたが、教えてくれたから」
彼の頭が肩口から起き上がる。情けなく揺れている瞳が、愛らしいと思った。
「ああ。わたしの幸せは、みんなを幸せにすることはできないんだって。今までは、これが自分にとっての幸せであり、みんなにとっての幸せなんだ。絶対にそうなんだ。だからわたしも嬉しいんだって。……そう、思ってたはず。なんですけどね」
視界がぼやけてくる。彼の顔は、もうよく見えない。
「考えは。変わりません。でも。……っ、なんでこんなに。苦しいんだろう。わたしは。幸せなんです。……これ以上の幸せなんて。ない、ぐらい」
両頬がやさしく包まれる。
「……うん。それで?」
やわらかい音だった。これが彼の素だといいなと思った。
「だ。だって。……もう。わたしには。こんな幸せは来ないって。……おもって。たから……」
「うん」
「もう。決まってることなんです。変えられないんです。……わたし。だって……ひっく。できることなら。変えたい」
とめどなく流れる涙を、やさしい指が何度も拭ってくれた。
「……っ。しあわせに。っ、なり。たい――!」
言い切ったと同時に、何かで唇が塞がれた。
やわらかくて。しっとりと濡れていて。熱くて。甘い何かに。
そっと彼の胸を押し返そうとするけれど、力が入らない手は簡単に絡め取られ、そのまま壁に縫い付けられる。
「(……いい、におい……)」
彼からふわりと香る香水で、体の緊張が取れていく。同時に、口付けが深くなっていった。それでも強引なものではなく、まるで葵の頑固さを溶かそうとしているかのよう。深く深く、奥からじんわりと温めるような甘い口付けが心地よくて、いつしか身を委ねていた。
「あなたの本当の気持ちが、聞けてよかった」
口付けの合間に紡がれるやさしい言葉。嬉しそうに細められる瞳。
言葉を返したくても、紡ごうとする度、彼に飲み込まれてそれもままならないけれど。
「(こんなわたしのために。こんなにも必死になってくれて。ありがとう)」
葵はただ、彼から降ってくるたくさんの口付けに応えた。
感謝の気持ちを、有りっ丈詰め込んで。



