急いで校舎の中に戻る。
 昇降口をくぐる時に少し緊張したけど、いつも通り、なんの変りもない昇降口だった。
 でも。

 スカートのポケットを探る。足に当たってちょっと歩きにくい、重たい感覚。
 スマホだ。ポケットから取り出して、ストラップを見た。チャームは、銀色の本の形。
 廊下を戻って、ちょっとだけ、図書室を見に行った。
 中には誰もいない。三島さんも、……いないみたいだな。

 そうっと奥に入って、ファンタジーの本棚を見る。
 ……おかしい。今日だってなんとも思わなかったのに、棚に刺さってる背表紙のタイトルが、どれもとても面白そうに見える。
 読んだことのある有名な本の内容を思い出したり、読んだことのない本はタイトルから中身を想像したりしていると、どんどん胸がどきどきしてきた。
 ファンタジーって最近読んでなかったけど、こんなに面白そうだったっけ。

 童話と絵本の棚も見てみた。
 こっちも、もっと小さい子供向けの話だって分かってるのに、ついつい手に取りたくなった。
 気のせいか、「夜の図書室」じゃないのに、背表紙が光っているようにまで見える。

 振り返って、ジュブナイル――ジャンルの札を見ると、今はヤングアダルトっていうみたい――と、ミステリ、ホラー、恋愛小説の棚を見てみた。
 そうしたら、ファンタジーとは全然違う。中学の図書室に入るくらいだからどれも有名な本のはずだけど、ちっとも面白そうじゃない。
 そこに本があるのに、まるでなにもないのっぺりとした廊下みたい。

――君を待っている。どうか、また来てくれ。そして、あいつらを助けてやってくれ。

 ……夢かどうかは、明日の夕暮れに分かるよね。
 私は下駄箱に戻った。外を見ると、雨がちょうどやんでた。
 水たまりをよけて、外へ歩き出す。

 すごいことが。
 ……なんだか、すごいことが始まった気がする!



「ようこそ。待ってたよ、新任の『夜の図書室』の司書さん」

 次の日、放課後に図書室へ行くと、三島さんがそう言ってにっこり笑った。

「夢じゃなかった……!」

「そう。全然夢じゃない。もしかしたら朝一番で来るかな、と思ってたよ」

「だって、朝とか休み時間に来てお話聞いても、授業始まったら途中になってじっくり聞けないじゃないですかっ」

「そうだね。ところで七月さん、あれ見てみて」

 三島さんが手のひらで示したほうを見ると、ファンタジー作品の棚の前に、一人の女子が立ってた。

「あの子、時間つぶしにふらっと来たみたいなんだけどね。輝きを取り戻したファンタジージャンルで、さっきから何冊もあらすじを見ているよ」

「わあ! やっぱり、今までより本が魅力的に見えたのは私だけじゃないんですね!?」

 小声でしゃべるよう気をつけつつも、でも嬉しさを隠し切れずに語尾が上がっちゃった。

「これまでは似たようなことがあっても、みんな見事に素通りだった。君のおかげだよ」

 やがて、女の子は二冊のハードカバーの本を持ってカウンターに来た。

「これ、借ります」

「はい、では貸し出しますね」

 三島さんが貸し出しの処理を済ませると、童話の前に立っていた私を手招きする。
 図書室の中は、二人だけになってた。

「七月さん、確認なんだが。君、また夜世界に来てくれるってことでいいのかな?」

「はい。ファンタジーさんと約束したんです。ジュブナイル、ミステリー、ホラー、ラブロマンスですよね。私が、みんなを助けたいです」

「……ありがとう。私は『夜の図書室』から出られないから、少しずつ去っていく彼らをただ見ていることしかできなかった。すごく助かるよ。でも、無理しないようにね」

 それから夕暮れがやってくるまで、私は図書室の中の本をいくつか取り出して読んでみた。
 一年生の時に読んだ本もあったのに、今読んでみると、そのころより面白いと思えなかった。
 ミステリやホラーも苦手っていうわけじゃないのに、文章を読んでても頭の中に内容が入ってこない。

「これが、寿命を迎えてる本たち……」

 ファンタジーの有名な作品で、伝説の舞台で勇者が活躍する本を一冊手に取ってみた。
 最初のほうはちょっと難しい説明が多かったし、海外の本の翻訳だから文章が堅苦しいところがあるのに、全然気にならないで読める。

「すごい、ファンタジー面白い……」

 ついつい夢中になりかけた時、そとで雷が鳴った。
 はっとしてスマホを出す。チャームが、ほんのり光ってる。
 三島さんを見ると、うなずいてた。

「行ってきます!」

 雷鳴がどんどん大きくなってくる。
 廊下には何人かの生徒たち。たまに、先生たち。
 人通りはあるのに、この音を気にしてる人はいないみたい。
 私だけに聞こえてるんだ。
 ポケットの中のスマホをストラップごと握りしめる。
 そして、昇降口をくぐった。

 外は真っ暗だった。
 振り返ると、校舎の中には誰もいない。校庭や校門のほうを見ても、誰もいない。

「き、来たんだ。夜世界に!」

 私は校舎の中に引き返した。
 廊下に上がって、図書室に――「夜の図書室」に向かう。
 角を一つ曲がったところで、いつの間にか早歩きになってた私は、人にぶつかりそうになった。

「ひゃっ!?」

「よう。来たか」

「ファンタジーさん!」

 黒い髪、黒い瞳、黒いマント。鋭い目は、にやっと笑うとちょっと意地悪そうに見える。

「『夜の図書室』に行くのか? ちょうどよかった、ほら」

 ファンタジーさんが、木のカップとスプーンを渡してくる。
 受け取ると、ほんのり温かかった。中には、オレンジ色の液体が入ってる。……かいでるだけで、お腹が空いてくるくらい。

「マレール香草とオレンジポテトのスープだ。フェナン鳥の骨からだしをとってある」

「材料のなに一つ、聞いたことがないです……」

「だろうな。創作世界の中の食べ物を想像して楽しむのは、ファンタジー作品の醍醐味の一つだ。通路で立ちながらで悪いが、司書の特権だと思って、まあ味見がてら食べてみてくれ」

 確かに変な感じ、と思いつつ、私はその場で立ったまま、スプーンでスープをすくって飲んでみた。

「あ、おいしい! この香草、すごくいいにおいですね。このじゃがいもみたいなのも、甘酸っぱくてほくほくしててスープによく合う~!」

「だろ。本当は落ち着いて食べさせてやりたいんだが、図書室の中は基本飲食禁止だからな」

「え、でも三島さん、お茶飲んでませんでした?」

「あいつは図書室から出られないが、その間飲まず食わずってわけにはいかないだろ。で、それ用に別に奥へテーブル出してただろ? ああして飲み物飲むのがぎりぎりの妥協点なんだろうな」

 あれ、と思った。

「……図書室から出られない?」

「ああ。ミシマエルはこの学校の『夜の図書室』の司書として、本の管理をしている。またそのために、魔法で現実世界の仮の姿を周囲の人間たちに溶け込ませている。たとえばミシマエルは何年ここで司書をしていても歳を取らないんだが、それを周りに不思議に思わせないのも魔法の一つだ。あれで結構仕事に根詰めるたちだからいっぱいいっぱいでな、夜世界では魔力の源である図書室から出られないんだ」

「図書室は、魔力の源……?」

「そうだ。学校とは学び舎だろう? 知の本拠地である図書室は、学校を守るための中心になることが多いんだ。本当は、あいつが真っ先に図書室を飛び出して、ジュブナイルたちを助けたいんだろうにな……」

 ファンタジーさんが、空になった私のカップを受け取ってくれた。
 それから、図書室に向かって並んで歩く。
 そうなんだ、三島さんて、そうして司書として過ごしてたんだ。

「ここの図書室の本がまだ完全に寿命を迎えずになんとか踏みとどまっているのは、ミシマエルの手助けによるところが大きい。だから、花音が来てくれておれを助けてくれたのは、あいつも相当喜んでいるだろうよ」

「た、助けたなんて。私のほうがかなり助けてもらいましたよ?」

「いいや。もう孤独に消えていくだけなのかもしれないと思っていたおれにとって、花音が来てくれたことがどんなにうれしかったか。それに、こうしてまた来てくれたことも。それはおれも、ミシマエルと同じだよ」

 すぐ横にいる、ファンタジーさんを見上げた。
 その顔には優しい微笑みが浮かんでる。

「あ、い、いえ、そんなにたいしたものでは」

 そう言いかけた時。

「花音さああああん!」

「来たか、花音っ」

 図書室の入り口に、見慣れた二つのシルエット。

「童話さん、絵本さん!」

 二匹は、器用に扉を開けてくれた。
 図書室の中に入ると、奥のテーブルで紅茶を入れてる三島さんがいた。
 さっきまで大人の姿だったのに、また昨日と同じように、十代の姿に変わってる。

「やあ、七月さん、さっきはどうも。ファンタジー、よくエスコートしてくれたね」

「おう。っていっても、あそこからここまでだけどよ」