「……っ」

 泣くつもりなんてなかったのに。
 勝手に涙が溢れて止まらない。

(やだ、こんな男の人の前で……)

 紗理奈が咄嗟に目君腕で隠す。
 大嫌いな警察官の前で泣きたくなんかないのに……!
 だけど、溢れる涙が止まってくれない。
 ごしごしと目を擦る。
 その時。
 さっと目の前に何かが差し出される。

「言い過ぎた」

 スーツのポケットから青いチェックのハンカチを取り出してきた。
 男性だとぐちゃぐちゃだったり、そもそも持っていなかったりすることが多いのだが、清潔に折りたたまれているもので、相手が几帳面な性格であることが窺えた。

「ええっと?」

 紗理奈はおそるおそるハンカチを受け取る。

「もう夜も遅い、婦女子が妄りに外に出ては危ない時間だ」

「仕事で残業することがあるので大丈夫です。催涙スプレーと防犯ブザーはお友達」

 さっとハンドバッグに忍ばせていた防犯グッズを取り出した。
 表情の変化に乏しい近江だったが、それを見てふっと微笑んだ。

「そうか」

 無表情だった男性の思いがけない優しさを感じてしまった。

(不愛想で上から目線の男だと思っていたのに、こんな風に穏やかに笑うのね)

 ふと、近江が何か言いたげに口を開く。

「堂本、と言ったな? 君は……」

 その時。

「近江警視正、先程の二名、タクシーへと連行しました。それ以外の関係者については現在捜索中です」

 私服警察官が現れた。
 呼ばれた近江は紗理奈に向かって頭を下げてくる。

「それでは、失礼する。遅くならないように帰れ。それでは」

 近江が何台か停車中のパトカーとの元へと歩んでいく。
 赤いランプがまた唸りはじめる。
 大嫌いなはずの警察。
 だけど、どうしてだか、彼の乗ったパトカーが見えなくなるまで目で追ってしまっている自分がいる。

「あの人」

 どうしてだか初めて会った気がしない。
 だけど、どうして知っているのかは思い出せない。
 紗理奈はぎゅっと両手で近江のハンカチを握りしめた。
 ふと。
 近くのビルの電光掲示板が夜の十時を知らせてくる。

「……って、いけない、もう帰らなきゃ! 明日は朝早いんだから!」

 紗理奈は慌てて踵を返すと、地下鉄の駅に向かって歩を進めた。

 すぐに近江と再会した上に、あんなことになるなんて……
 この時の紗理奈は、まだ知らなかったのだった。