「甘くて良い香りがするな」

 近江が目を覚まし、むくりと身体を起こした。

「ごめんなさい、起こしてしまいましたね。後は、勝手にキッチンを借りてしまいました」

「いいや、こちらこそ料理を準備してもらえるとは、感謝する」

 近江が立ち上がるとテーブルへと近づいてくる。黒いスーツのジャケットは脱いでしまっている。白いワイシャツ姿だが、ネクタイは留めておらず、第二ボタンまで開けているので、骨ばった鎖骨が覗いている。やや中性的ともとれる顔立ちの男性だが、こう見ると男性的だ。
 優雅な所作で椅子を引いて着席すると、両手を合わせた。

「いただかせてもらおう。ああ、リゾットか、懐かしい」

「懐かしい、ですか?」

「そうだ」

 近江はそれ以上は何も告げなかった。

「お口に合えば良いですが」

「俺はどんな料理でも食べるから気にしなくて良い」

 そう言われると紗理奈としても少々癪だった。
 近江が銀のスプーンを手に取り、リゾットを掬うと口へと運ぶ。しばらく口の中で咀嚼した後、ゆっくりと嚥下する。細身だが喉仏がしっかり太くて、上下する様がなんとなく妖艶だった。
 そうして、彼は匙を持ったまま口を開く。

「うまいな」

 近江が柔和な笑みを浮かべた。
 一言だけだったが、心の奥底から満足しているような表情だった。

「どういたしまして」

 トクン。
 紗理奈の心臓が跳ね上がった。
 心なしか頬が朱に染まる。

「どうした?」

 彼女の異変に気付いたのか、近江が真顔で問いかけてきた。

「いいえ、兄に褒められて以来、誰かに褒められたのは久しぶりだなと思って」

「そうか」

 それだけ言うと、近江は伏し目がちになりながら、次の一口を掬って口に運んでいく。
 彼を見習って、紗理奈もリゾットを食べ始めた。
 ふっくらしたご飯が、ほくほくと口の中で踊る。ミルクの甘みが口の中に広がっていくと同時に、コショウが舌先で弾けてスパイシーな香りが鼻腔を通っていく。

(我ながら美味しくできているわね)

 母が兄に習ったという堂本家伝統のリゾットだ。
 なんだか人恋しい時になんかよく作っていた。

「ごちそうさま」

 全てを食べ終えた近江が両手を合わせて「ごちそうさま」と口にした後、紗理奈に向かって話し掛けてくる。

「とても美味だった。俺もこんな風に誰かの手料理を食べたのは、数年ぶりだった。感謝する」

 表情がほとんど変わらない近江から感謝の念を告げられると、紗理奈としても悪い気はしなかった。

「どうしたしまして」

 それからしばらく二人とも喋らなかった。
 昼のバラエティ番組のにぎやかな音声が室内に響く。

「ごちそうさまです」

 紗理奈が全てを食べ干して両手を合わせる。
 すると、近江が話し掛けてきた。

「料理は兄に習ったのか?」

「ええ、そうですね。私が小学生の時に母が亡くなったので」

「そうか。先ほどのリゾットは兄直伝というわけだな」

「はい、そうなんです。お兄ちゃん、コショウをたくさん入れたがるから、小さい頃はよく喧嘩になっていました」

 すると、近江がふっと口元を綻ばせた。

「そうか」

 彼の表情は、どこか過去を懐かしむようなものに見えた。
 ふと、近江が兄と年が近いことに思い至る。

「そういえば、近江さんはおいくつになられるんですか?」

「今年、三十を迎える予定だ」

「三十歳になるんですね」

 兄も生きていたら、それぐらいの年になる。もしかすると、警察学校の同期だったりしないだろうか?

「そういえば、近江さん、同期の警察に――」