すべてはあの花のために①




「――――――……」


 冷たい冷たい暗闇の底から、誰かの声を遠くに意識が浮上する。
 最近になってよく聞こえるそれは、あたたかくて、そして、やさしい声だった気がする。見た夢は、欠片すらもう残っていないが。


「……いい朝だ」


 カーテンを開けると、差し込む眩しいほどの太陽。
 気持ちがいい朝日を浴びながらぐっと背伸びをしていると、控えめに扉をノックされる。


「おはようございます、お嬢様」

「……ええ、おはよう」


 下げた頭が、ゆっくりと上がる。
 光の加減で、金色のように輝く色素の薄い瞳と視線が交わると、二人同時に苦みを含んだ笑みを洩らした。



「朝食をお持ち致しました」


 ワゴンで運ばれた料理を、手際よく執事が盛り付けていく。
 その間に、久し振りに着る制服に着替え、身支度を済ませてからテーブルについた。

 ご飯に味噌汁。焼き魚に付け合わせ。納豆に卵。お浸しにお漬け物。今日も、すこぶる美味しそうだった。


「お嬢様、食後のお飲み物は如何致しましょう」


 部屋の主は一拍の間を空け、「コーヒーを。ブラックで」と返した。



「本日のご帰宅は」

「何時に終わるか、ちょっとわからないかな」

「お近くまでお迎えに上がりましょうか」

「ううん、大丈夫だ。ありがとう」


 車を待たせてあります――執事の控えめな声に食事は早めに切り上げ、コーヒーはその車の中で戴くことにした。

 部屋を出ると、屋敷中に広がる強いフローラルのパフューム。それに僅かに顔を顰め、長い廊下を、敷き詰められた絨毯に足音を吸い込まれながら、エントランスホールへ彼女は足を向けた。


「お嬢様」

「……」


 そうして、そこで足を止めた執事を振り返る。
 彼はもう、深く頭を下げていた。


「お早いお帰りを、お待ち申し上げております」

「………」

「お気を付けて、いってらっしゃいませ」

「……ええ。ありがとう」



 玄関の大扉を、音を立てて開く。


「――っ!」


 それと同時吹き上がる突風に、少し癖のある髪の毛が後ろの方へと攫われた。


「…………」


 そして、一緒に運ばれてきたであろう、庭園に咲いた花片と。
 噎せ返るほどの、甘い花の香り。

 それを払うようにふっと息を吐き出し、一歩目を大きく踏み出す。


「行ってまいります」


 今日からまた、……はじまる。