「――――――……」
冷たい冷たい暗闇の底から、誰かの声を遠くに意識が浮上する。
最近になってよく聞こえるそれは、あたたかくて、そして、やさしい声だった気がする。見た夢は、欠片すらもう残っていないが。
「……いい朝だ」
カーテンを開けると、差し込む眩しいほどの太陽。
気持ちがいい朝日を浴びながらぐっと背伸びをしていると、控えめに扉をノックされる。
「おはようございます、お嬢様」
「……ええ、おはよう」
下げた頭が、ゆっくりと上がる。
光の加減で、金色のように輝く色素の薄い瞳と視線が交わると、二人同時に苦みを含んだ笑みを洩らした。
「朝食をお持ち致しました」
ワゴンで運ばれた料理を、手際よく執事が盛り付けていく。
その間に、久し振りに着る制服に着替え、身支度を済ませてからテーブルについた。
ご飯に味噌汁。焼き魚に付け合わせ。納豆に卵。お浸しにお漬け物。今日も、すこぶる美味しそうだった。
「お嬢様、食後のお飲み物は如何致しましょう」
部屋の主は一拍の間を空け、「コーヒーを。ブラックで」と返した。
「本日のご帰宅は」
「何時に終わるか、ちょっとわからないかな」
「お近くまでお迎えに上がりましょうか」
「ううん、大丈夫だ。ありがとう」
車を待たせてあります――執事の控えめな声に食事は早めに切り上げ、コーヒーはその車の中で戴くことにした。
部屋を出ると、屋敷中に広がる強いフローラルのパフューム。それに僅かに顔を顰め、長い廊下を、敷き詰められた絨毯に足音を吸い込まれながら、エントランスホールへ彼女は足を向けた。
「お嬢様」
「……」
そうして、そこで足を止めた執事を振り返る。
彼はもう、深く頭を下げていた。
「お早いお帰りを、お待ち申し上げております」
「………」
「お気を付けて、いってらっしゃいませ」
「……ええ。ありがとう」
玄関の大扉を、音を立てて開く。
「――っ!」
それと同時吹き上がる突風に、少し癖のある髪の毛が後ろの方へと攫われた。
「…………」
そして、一緒に運ばれてきたであろう、庭園に咲いた花片と。
噎せ返るほどの、甘い花の香り。
それを払うようにふっと息を吐き出し、一歩目を大きく踏み出す。
「行ってまいります」
今日からまた、……はじまる。



