それからしばらくして、彼はゆっくりと自転車を止めた。
そこに広がる、一面真っ暗闇で覆われた世界。
「…………う、うみ……」
海風のせいか。わずかに粟立つ体を、葵は静かに摩った。
「(……いた)」
まだ入るには冷た過ぎるそこに、小さな黒い影が、ぽつんと砂の上に座っている。いつもの彼とは違う雰囲気に、葵は驚きを隠せない。
隣のチカゼが歩みを進めようとするが、葵は慌てて彼の服を掴んだ。
どうした――空気に言葉を滲ませながら、彼は振り向く。葵は、視線を小さな背中に注ぎながら、もう一つだけ聞いた。
「ねえチカくん」
「ん?」
「君たちは、“もう一人の幼馴染み”とも、仲が良かったか?」
静かに息を呑んだ彼は、『どうしてそこまで知っているんだ』とは、聞いてこなかった。
けれど、一度だけゆっくりと頷いてくれた。
「(そっか。それなら、ちゃんと届く)」
葵は、彼の背中をとんと押す。
「行ってこい。行って、しっかり話してこい。もし、届かなかったその時は」
――――わたしが行く。
そう目で伝える葵の頭を、彼は苦笑いしながらわしゃわしゃと撫でる。
「本当心強えよ。ま、そんなことさせる前にオレがちゃんと話すから。でももし。もし、ダメだったら」
――――その時は、お前の力を貸してくれ。
そして彼は、小さくなった背中の元へと歩いて行った。
……じゃり。……じゃり。
砂が擦れる音だけが聞こえる。音の主は、恐らくあいつだろう。あいつしかいない。
――――菊ちゃんっ。
だってもう、記憶の中でしか聞こえない。
あの声は、彼女は、もういない。
なのに今更、お前はどうしろっていうんだ。
「キク」
こいつはまだ、諦めてないのか。
どうしてそんな、真っ直ぐな声で目で、こっちを見てくる。
もう。やめてくれ。
これ以上、惨めな自分は見たくない。
「キク。話があるんだ」
彼は、ゆっくりと話し始めた。
そんなことしたって。何をしたって。もう、手遅れだというのに。
「……あのなあチカ」
オレは。あいつは。――――変わらねえんだよ。



