すべてはあの花のために①


 それからしばらくして、彼はゆっくりと自転車を止めた。
 そこに広がる、一面真っ暗闇で覆われた世界。


「…………う、うみ……」


 海風のせいか。わずかに粟立つ体を、葵は静かに摩った。


「(……いた)」


 まだ入るには冷た過ぎるそこに、小さな黒い影が、ぽつんと砂の上に座っている。いつもの彼とは違う雰囲気に、葵は驚きを隠せない。
 隣のチカゼが歩みを進めようとするが、葵は慌てて彼の服を掴んだ。

 どうした――空気に言葉を滲ませながら、彼は振り向く。葵は、視線を小さな背中に注ぎながら、もう一つだけ聞いた。


「ねえチカくん」

「ん?」

「君たちは、“もう一人の幼馴染み”とも、仲が良かったか?」


 静かに息を呑んだ彼は、『どうしてそこまで知っているんだ』とは、聞いてこなかった。

 けれど、一度だけゆっくりと頷いてくれた。


「(そっか。それなら、ちゃんと届く)」


 葵は、彼の背中をとんと押す。


「行ってこい。行って、しっかり話してこい。もし、届かなかったその時は」


 ――――わたしが行く。

 そう目で伝える葵の頭を、彼は苦笑いしながらわしゃわしゃと撫でる。


「本当心強えよ。ま、そんなことさせる前にオレがちゃんと話すから。でももし。もし、ダメだったら」


 ――――その時は、お前の力を貸してくれ。

 そして彼は、小さくなった背中の元へと歩いて行った。





 ……じゃり。……じゃり。
 砂が擦れる音だけが聞こえる。音の主は、恐らくあいつだろう。あいつしかいない。

 ――――菊ちゃんっ。

 だってもう、記憶の中でしか聞こえない。
 あの声は、彼女は、もういない。
 なのに今更、お前はどうしろっていうんだ。


「キク」


 こいつはまだ、諦めてないのか。
 どうしてそんな、真っ直ぐな声で目で、こっちを見てくる。

 もう。やめてくれ。
 これ以上、惨めな自分は見たくない。


「キク。話があるんだ」


 彼は、ゆっくりと話し始めた。
 そんなことしたって。何をしたって。もう、手遅れだというのに。


「……あのなあチカ」


 オレは。あいつは。――――変わらねえんだよ。